| 芙苑晶 バイオ・ストーリー |
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| ** 写真は公式サイト http://www.fzono.com/ の日本スタッフの方に許可を得て使わせてもらっています。文責は管理人です。 |
** 黄色文字で表したのは、インタビューや対談、雑誌記事その他から拾った、芙苑晶の発言より。
ただしいずれも
古い資料(おもに1990年代)なので、今とは感じが違っている部分もあるかもですが。 |
なるだけ資料を元に正確を期して書いていますが、何しろ、とくに若い頃は自分のプロフィールに関しては秘密主義であったとも言われ、元々インタビューやバイオ等の資料が少ないアーティストなので、若干の間違いがあるかもしれません。
今後、間違いを発見次第、随時手直しを加えていきたいと思っていますが、現時点ではまだ未完成で、途中まで出来ていません。文章も後半へ行けば行くほど破綻しているところが多いですが、興味のある方はどうぞ。 |
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---- 芙苑晶とはどんな人なのか? これを説明するのは、けっこう骨の折れる作業です。だってこの人の経歴がまた、すごすぎるのですから。
巷では「天才」というふうによく言われるアーティストだが、あまりに数奇な経歴は、天才と言うより「超人」というイメージが僕にはあります。
言ってみれば、数少ない「現代の超人」というところでしょうか・・・。
本名 芙苑 晶(ふぞの・あきら)。1969(昭和44)年11月20日生まれ。生まれたのは京都だが、育ったのは神奈川県の横浜市である。
芙苑晶がまだ4才の頃、両親が離婚し、母子家庭で育っている。両親が離婚した時、父が家を出て行ったので、芙苑晶は自分の父の顔を覚えていないそうだ。芙苑晶は三人姉弟の末っ子で、姉が二人いた(しかし下の姉はのちに亡くなっている)。
母子家庭であった彼の家は、かなり貧しい家であったそうだ。お母さんは、友人といっしょに喫茶店を経営するかたわら、通訳の仕事をしていた。だが小学校時代ぐらいまではひどく貧しい家で、彼がまだ幼い頃は、雨漏りのする部屋で、襤褸のアップライト・ピアノの上に青いビニールシートをかぶせ、その上に雨漏りを受けるためのポリバケツを置いてピアノの練習をしていたという凄まじいエピソードがある。
「子供の頃の事は、あんまり覚えてない。音楽も、最初は好きじゃなかった。
ただ、物心ついた頃には、やらされていたんだよね。それが今日までずーっと、続いてるだけね」
「僕は、これしかできない。音楽以外のことは、なんにもできない。器用じゃないんだ。
でも、器用な人間になんか、なりたいと思わない。思ったこともない。
僕は、古いかもしんないけど、この道一筋っていう生き方のほうが、ずっと好きだね」
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5才頃からピアノ教室に通い本格的にピアノを習い始めた。6才の時に最初のピアノのリサイタルを開き、同じ頃から作曲を始めたという天才少年であった。しかし意外なことには、芙苑晶は「その当時は、音楽なんてそんなに好きじゃなかった」と語っている。ピアノの練習を楽しいと思ったことはなかった、という。むしろ最初から、作曲とか絵のようなクリエイティブな仕事に最初から関心があったようだ。
作曲家の黛敏郎氏が7才の芙苑晶(!)の作ったエチュード的な作品(習作)を聞いて「この子は天才だから、作曲家に育てるべきです」と芙苑晶のお母さんに推薦したという話は、古くからのファンの人なら知っているかもしれない。
「大昔の人が創った音楽を演奏するよりは、自分で作曲したり、絵を描いたりすることのほうが僕にはずっと魅力的だった。
僕は元々、人が決めたルールに従うのが好きじゃない。
それよりは、自分が新しいルールを考え出すこと、無から有を生み出すことのほうが、ずっとスリリングなんだ」
(初期のインタビューより引用)
当初はクラシックの作曲家めざして、弦楽四重奏、オルガン・トッカータ、ピアノ・ソナタなど、かなりの数のクラシック作品を書いたといわれている。黛敏郎に師事し、和声学・対位法・管弦楽法・ソルフェージュなど、アカデミックなクラシック音楽の作曲技術をひととおり学んだ。
最初のクラシック作品『ピアノとオーケストラのためのコンチェルト(Concerto for Piano and Orchestra)』発表、14才で作曲家としてデビュー。前年の習作作品群の中から誕生したデビュー作。武満徹をして「たぐいまれな、悪魔的な天才」、黛敏郎をして「100年 に一度の天才の出現」とまで言わしめた稀有な才能で、すでに天才少年の評価を得るが、作品そのものは狂気に傾斜した作品と見なされ、クラシック界一般からの評価は得られずに終わる。
同じ頃、電子音楽、ロックなどにも興味を持つ。ビートルズ、ピンク・フロイド、イエス、ウェンディ・カーロスなどのアルバムをよく聴いた。学校では級友に誘われてハード・ロック・バンドに加入、キーボードを弾いていたことがある。
また、おそらくこの時期、彼の下のお姉さんは難病のため長いこと入院していたが、14才という若さでこの世を去っている。芙苑晶は、この、下のお姉さんとはかなり仲が良かったようで、よほどショックを受け落ち込んだのだろう。詳しいコメントがあるわけではないが、まだデビューまもない頃のSiamese Twin名義でのインタビューでは「姉が死んだ時、僕も死にたいと思った」という悲しいコメントが見られる。
(※なお、古い資料を見ると、ファンクラブの解放には「双子のお姉さんが死んで・・・」と書いているものが混じっているが、これは間違いではないかと思います。年齢差は不明だが、芙苑晶が「中学の時に下の姉が亡くなって・・・」と言っているものがあるから、芙苑晶とはおそらく1歳か2歳違いの人ではないだろうかと思われる。前述の双子説は、同じインタビューで「双子のように仲が良かった」と言っているのをファンの人が勝手に間違えて書いたのではないかと思われます)。 |
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話は前後するが、芙苑晶がシンセサイザーに興味を持ったのは意外と早く、10才の頃だった。
姉とともに東京に出かけたおり、スタンリー・キューブリックのSF映画『時計じかけのオレンジ』を見た芙苑晶は、斬新な映画の内容にも感心すると同時に、この映画のサウンドトラックに興味を持った。ウェンディ・カーロスの編曲によるベートーヴェンの第9交響曲(俗に言う「合唱」)が使われていたが、全編シンセサイザーを使った未来的なアレンジは、芙苑晶をかなり惹きつけたようだ。
芙苑晶はこうして早くからエレクトロニクスを使った音楽にも関心を持っていたが、彼の当時創っていた音楽はまだクラシックまたは現代音楽のジャンルを出るものではなかった。14才ぐらいまでは、ワグナー、ベートーヴェン、バッハあたりが一番好きで、それ以外の音楽にはあまり関心がなかったそうだ。
当時、1979年頃は、シンセサイザーの黎明期から普及期に至る時代であり、クラフトワークやYMOなどのテクノポップの黎明期の時代でもあった。
芙苑晶はそういったテクノポップやニューウェーブにはあまり惹かれず、ウェンディ・カーロスやパトリック・グリーソン、トミタなどのクラシック音楽のシンセサイザー・ヴァージョンに関心を持っていた。また、テクノよりは、1960-70年代のロックに興味を持っていた。
中学時代の半ば頃(中2ぐらいの頃か)には、シカゴにホームステイをしているが、そのおり、大学の電子音楽スタジオなどを訪ね、最新の電子音楽や前衛音楽を学んだ。そして現地でシンセサイザーを購入、日本に帰国後、15才頃から自宅スタジオで多重録音による自作曲の制作を始めた。
本人の記憶によれば、小中学校時代はあまり勉強熱心なほうではなく、成績もパッとしなかった。とくに下の姉が病死して以後一年ほどの間、中二から中三にかけては成績が極端に落ち込み、下から数えたほうが早かったという。しかし、進路相談では芸大作曲科への進学が仮決定していたのと、また、母に「国公立でないと大学には行かせない」と脅されていたため、中三の後半になって突然猛勉強を始め、卒業直前になって学年でトップの成績を取った。
・・・といった感じで、高校の途中ぐらいまでは、芸大の作曲科を志していたらしい。
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| 高校時代 / 実験音楽と模索の時代 - エテロフォニック・オーケストラ、他( 1985 - 87 ? ) > |
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この時期を境に、音楽のスタイルにも次第に変化が現れ始める。それまで自分が学んできたところのあらゆる既存のルールを放棄して音楽を作り出す試みにチャレンジし始めたようだ。クラシック的な音楽から、よりプログレッシブな音楽への転換があったこの時期は、本人もインタビューで言っているが、まだアーティストとして模索の時期であったようだ。
クラシックの世界に限界があることを悟り、クラシックを逸脱し、非クラシック的な音楽、電子音楽や民族音楽、サイケデリック・ロックなどの前衛的音楽に、より関心を示すようになっていた。高校時代、現代音楽作曲家の住谷智氏に師事して電子音楽、ミュージック・コンクレートなどの技法を学んだこともあった。
自宅での電子音楽の制作を続けていた芙苑晶は、1986年、自主制作による最初の非公式な電子音楽アルバムを50部限定リリースしている。
これは筆者は未聴だが、シンセサイザーやミュージック・コンクレート的な電子音楽の技術を使った、実験的で自由な電子音楽作品だったようだ。
日本初(もしかして世界初という説もある)の、全て電子楽器によるオーケストラ「エテロフォニック・オーケストラ(Etherophonic Orhcestra)」を結成、自ら率いて、図形楽譜による作曲・指揮等をつとめるという革新的な活動をおこなったのも、この高校時代(!)であったというから驚いてしまう。
こうした一連の活動の中で、知性に走りすぎ感情表現を失ってしまった現代音楽のありようとそのスノビズム及びエリート主義を批判し、「芸術は大衆のためのもの。だが『大衆』とは、『愚かな人々』 を意味する言葉ではない」と語り、ポピュラー音楽とクラシックを真に融合する、新しい「総合音楽」を創るべきと主張。当時からネオ・ロマンティシズムという言葉をすでに使っており、まだ無名に近かった吉松隆の作品に注目、評価していた。
そうしたさまざまな音楽上の実験から、「淫心」という一種異様な実験音楽のプロジェクトが生まれたのもこの時期だった。
「淫心」は、サイケデリック・ロック・バンドというふうにも言われることが多いようで、確かにそういうスタイルの音楽に近いが、実際は、コラージュ・ミュージックみたいな感じである。シュールの絵を音楽にしたような、異様で幻想的なサウンドだ。
淫心は、のちの「ファー・イースト・アシッド・ハウス・クワルテット」の母胎になったグループと言えば、名前ぐらい知っている人もいるかもしれない。
高校時代から十代後半にかけての芙苑晶の軌跡は、なかなか興味深い。古いライナーノーツやインタビューその他から、いくつかのエピソードを拾ってみよう。
このころ芙苑晶は、日本を代表するクラシック音楽の作曲家・武満徹氏と出会っている。
古いバイオを見ると、「武満徹に師事」と書かれているものが混在しているが、しかし別の記事(インタビュー等)を参照すると、武満さんは弟子を取らない方針だったので、音楽を学んだというわけではなさそうだ。
しかしある種の親しい師弟関係、先輩・後輩のような関係ではあったらしい。芙苑晶は、武満さんの人柄も大変好きだったらしい。
武満徹氏も、芙苑晶の才能をいち早く見出し、絶賛した先輩の一人だった。すでに書いたとおり、武満徹は、まだ16才の少年だった芙苑晶を評して、「たぐい稀な、悪魔的な天才」と驚嘆したという伝説的なエピソードが知られている。
そんなわけで、当時彼は武満徹氏とかなりの親しい交流があったようで、武満氏を通して日本の芸術家たち(小説家の中井英夫氏、舞踏家の土方巽氏、その他)と交流があったらしい。 |
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高校時代は成績優秀で、一・二年と成績は学年トップであったとするクラスメートの証言がある。しかし一方、反体制的な生徒でも有名であり「異端児」風だったらしい。
高校二年、学校で一番の長髪を風紀担当の教師に指摘され、反発して自主的に三週間にわたり不登校を続ける。
クラスメートらとともに学校の服装自由化運動を提唱。そのリーダーとして「学生の自由を認めない教師たちの官僚的独裁主義」を告発するビラを全校に配布。続けて、校内新聞に日本の教育制度を批判する扇情的な記事を書き、無期謹慎処分にされる。教師らに「成績は良いが、学校内で最も扱いにくい生徒」と評価されていた。
謹慎処分中に図書館に通いつめ、主にヨーロッパの文学、思想・哲学書を読破した。文学ではJ・K・ユイスマンス、マルキ・ド・サド、ボードレール、ランボオ、萩原朔太郎、澁澤龍彦、哲学ではパスカル、キェルケゴール、ライプニッツ、ジョルジュ・バタイユ等に傾倒する。以後、あまり学校へ通わなくなった。
また、この当時、おそらく高校時代の半ばぐらいだろうか。学校に興味を失ってしまい、あまり行かなくなった芙苑晶は、古い名画座(映画館)に通って古い映画をいっぱい観たり、
図書館で本を読み漁ったりなどしていたという。
また、このころのエピソードとして、ある時、狂人の描いた絵を見て感銘を受け、「僕も、こういう音楽を創ってみたい」と友人に言ったことがあった。
高校二年の途中で、芙苑晶はちょっとした「事件」を起こして高校を退学処分にさせられている。彼の横浜の中学時代に、個人的に仲が良かった「恩師」と呼べるような男の先生がネパールに住んでいたが、その先生から「一度遊びにおいで」といった手紙をもらい、彼は、春休みを利用して出かけていった。最初はこの先生や友人たちとネパール、インドあたりを旅していたが、そのうち独りで現地をあちこちうろついているうちに、日本に戻るのがいやになってしまったらしい。
放浪の旅は一ヶ月以上も続き、日本の実家や高校では行方不明者として大騒ぎになったそうだ。そのうちどうにかして戻ってきたが、出席日数が足りず、本人も反省の意を見せなかったため、高校を退学処分にされてしまった。芙苑晶はこれを、のちにインタビューで「学校側の陰謀」とも言っている。
しかし、こんなトラブルを起こしてしまったにもかかわらず、元々優秀な学生ではあったので、周囲が黙っていなかったようで、将来をどうするかで喧々囂々になったが、本人は「芸大になんかもう行く気はない」と言っていたらしい(武満さんの影響もあったという説がある)。
高校を中退した時、「一年だけドイツに行かせて欲しい」と親にわがままを言って、日本を出、次にヨーロッパはドイツ(旧・西ドイツ)へ渡ることになる。
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ドイツ留学時代 / 淫心 / 幻覚植物研究所(Psychedelic Plants Research Laboratory)
( 1987 - 1991) > |
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1987年、日本の高校を2年で中退後、17才の少年だった芙苑晶は、単身ヨーロッパに渡る。以後数年間、主にドイツ(旧・西ドイツ)に滞在。
元々は、ドイツの大作曲家・カールハインツ・シュトックハウゼンに弟子入りするのが目的だったらしい。古いインタビューを読むと、高校時代、芙苑晶はシュトックハウゼンに手紙を書いて、返事をもらっている。おそらくこれがドイツへ行ったきっかけではないかと思われる。
シュトックハウゼンの名前は、芙苑晶の古いインタビューにも、しばしば登場していて、かなりの交流があったことが想像される。シュトックハウゼンとは師弟関係にあった。しかしこれも音楽理論を学んだというわけではないようだ。シュトックハウゼンは武満徹と同じく、弟子を取らない人だったため、芸術論を交わすような仲になっていたそうだ。
芙苑晶にはもう一人恩師と呼べる人がいる。前衛音楽で有名なマウリシオ・カーゲルだ。芙苑晶はカーゲルに弟子入りし、刺激的な間柄だった。同じ現代音楽の作曲家でリゲティにも会ったことがあるらしい。
こうした日々の中で、現地で作曲活動も断続的に行なっていた。しかしこの当時はまだクラシック・現代音楽のスタイルの延長線上であったようだ。
また、同じ頃、ケルンの隠秘学研究所に入り、ルドルフ・シュタイナーの人智学、グルジェフの神秘宇宙論等に傾倒。シュタイナー系の専門学者に師事して学ぶが、のちに訣別。
この当時、現地で語学学校に通うかたわら作曲活動を続けるなどしていたが、本人曰く、本人は当初は大学に行くつもりはなく、「ただブラブラしていただけ」であった。しかし元々哲学や神秘主義への関心を持っていた彼は、次にケルン大学の聴講生となり、哲学や美学等々の基礎コースを勉強し始めた。
この当時、同じ大学の医学部に通う大学院生のドイツ人の友人より勧められて幻覚剤・メスカリンを初めて体験する。これが契機となり、原始宗教やシャーマニズムをテーマに据えた新しい電子音楽の表現にヴィジョンと方向性を見い出し、「神秘象徴主義音楽(Esoteric-symbolism Music)」を提唱する。芙苑晶は現在までにいくつかの音楽上の新手法を提唱・発明しているが、その最初のものと推定される。
このころの作品としては、オーケストラのための最初の公式なシンフォニーとして発表予定だった大作、『交響曲第一番(Symphony No.1)』を作曲している(未完成)。 図形楽譜を用いた『幽星体投射 (Astralprojektion)』、『万物照応舞踏(Correspon-Dances)』などがある(これらはいずれもクラシックないし現代音楽のスタイルによる作品と思われる)。
しかしこうした一連の紆余曲折の体験は、のちに芙苑晶が仲間たちとやり出す、幻覚植物研究所(Psychedelic Plants Research Laboratory)や、ファー・イースト・アシッド・ハウス・クワルテットでの野外レイヴのスタイルを考えると、興味深いものがある。
いずれにせよ、芙苑晶がクラシック/現代音楽のスタイルで作曲活動をしていたのは、この時期が最後になってしまった。これ以後は、サイケデリック・ロック、前衛ロックを経て、テクノ、ハウス、トランスといった、当時最先端の電子音楽へとシフトしていく。
ケルンでの大学の予科実習を経て、のちに、ミュンヘン大学に入学。美学・芸術学を学んだ。専攻は西洋音楽史。
さらにのち、西ベルリンに移住。名門・ベルリン自由大学に入り哲学を学んだ(が、のちに中退)。専攻は科学哲学、神秘主義思想。この当時、大学では「ヤコブ・ベーメ研究」「マルキ・ド・サド研究」という論文を書いている。古いインタビューを読むと(芙苑晶はこの当時、まだクラシックの作曲家だったので)クラシックの作曲だけではなかなか食えないので、博士号を取って、将来は学者として身を立てるつもりで勉強していたらしい。
とにかく、いろいろ波乱はあったにせよ、ここまではまさに、クラシック界で将来を嘱望される天才少年の軌跡という感じで、そのまま行けばエリートコースに乗れるはずであった。本人も、留学から帰ったら将来は日本で大学教授になるつもりだったと言っているのだが・・・。
しかしそのあとに続く展開は、実に数奇な運命としか言いようがないものだ。以後数年間、大学を中退するまで(1991年頃か)、自身の作曲活動、バンド活動(淫心、Far East Acid House Quartet )、大学での哲学の勉強という三重生活を並行して続けることになる。
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話は相前後するが、この時期(1987-88年頃)と重なっていると思われるのが、ファー・イースト・アシッド・ハウス・クワルテットの母胎となる第二期「淫心」の時代である。
1988年の2月、日本へ一時帰国した芙苑晶は、市川カヲルという女の子から、突然訪問を受けた。彼女は芙苑晶の家を訪ねてきて、「バンドをやりたいので、メンバーとして入って欲しい」と言った。バンドというのは、この時点ではまだ名前も決まっていなかったらしいが、ダンサーの田嶋エリサ、DJだった安永リョウ(のちの「DJリョウ」→「スペースDJリョウ」)、ウィンド奏者だった市川カヲル、そして芙苑晶の高校時代の同級生でギタリストであった佐野寿光(のちの「マダム呪々」)の四人で、前衛ロック/サイケデリック音楽のバンドをやろうとしていたらしい。
芙苑晶はバンド活動をやる気はなかったので、最初この誘いを断ったが、他の四人のメンバーに会ってみて、人柄に惹かれたらしい。それで、次にドイツに戻るまでのツナギとして、余暇にバンド活動をやることにした。しかしこれが、のちに彼の運命を変えてしまった。
バンド名は「淫心」に決まった。これは、高校時代に芙苑晶がやっていた「淫心」とはまた異なるものだ。正確に言うと、一時はやめてしまったプロジェクト「淫心」が、メンバー・チェンジして「バンド・スタイルで」復活したヴァージョン2の「淫心」というイメージと思われる。
元々は、サイケデリック・ロックのバンドとして始まった淫心だったが、この時期はちょうど模索の時期だったらしい。彼らはこの時点で、まだまだマイナーな存在だったハウス・ミュージックに興味を持っていた。同時に、ハウス/テクノの源流の一つともされる、ジャーマン・エクスペリメンタル・ロック・・・・つまり、CAN(カン)、コニー・プランク、ノイ、クラスターといった電子音楽や、ピンク・フロイド等のサイケ・ロックといったジャンルへの関心が、メンバーの共通項でもあった。
こうして「淫心」のセカンドアルバム『鳥どもの家』のレコーディングが開始される。芙苑晶とDJリョウの自宅でそれぞれ録音されたものを編集したものだが、日本のみならず世界的にも珍しい、アシッド・トランス音楽の予言的作品と見なされるような、実験的な試みが見られる前衛的アルバムである。
このアルバムの制作と並行して、芙苑晶はケルンと日本で自主制作アルバムを作っている。これのタイトルが「幻覚植物研究所(Psychedelic Plants Research Laboratory)」というもので、『鳥どもの家』と同時にリリースされている(もちろん今は廃盤である)。
この当時の幻覚植物研究所(Psychedelic Plants Research Laboratory)は今聞くと、トランスという言葉がまだない時代(1980年代末)に今で言う「トランス」(とくにサイケデリック・トランス、エスニック・トランス系)に近いスタイルの電子音楽をやっていたというのが驚異的。幻覚植物研究所(Psychedelic Plants Research Laboratory)はのちに90年代に入ってから、トランスの先駆者としても評価されるようになったようだ。
年代を追ってキャリアを見ると、芙苑晶にとってはこのデビューの時期が、音楽家としての大転換期とも重なっていたようだ。
子供の頃から習わされてきたクラシック。学生時代好きだった1960-70年代のロック(とくにサイケデリック・ロック)。電子音楽、民族音楽、古代音楽への関心・・・そして、1980年代の終わりに出会った、テクノ/ハウスのムーヴメント、クラブ、etc... といった、一見バラバラの要素が、幻覚植物研究所によって触発され、ある方向へ動き始めたのがこの時期だったとインタビューでも語っている。
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| ファー・イースト・アシッド・ハウス・クワルテット、もしくはLSD解放同盟(Far East Acid House Quartet, Otherwise the LSD Liberation Front ) ( 1988 - 1997 ) > |
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そうこうするうち、ギターのマダム呪々がリョウと喧嘩をし、バンドを脱退。残された四人はヨーロッパへ行ってみようという話になったようだ。遊び半分もあったらしいが、これが彼らの運命を変えてしまった。
最初はベルリンあたりに行こうという話があったらしいが、一説によれば、ロンドン行きになったのはただの偶然で、英語なら4人とも全員どうにか喋れるし通じるから、という理由でしかなかったとも言われる。
88年の夏には、ロンドンでアシッド・ハウスが大流行した。その時に偶然やって来た彼らは、すごいムーヴメントに遭遇した。
「セカンド・サマー・オブ・ラブ」と呼ばれる、アシッド・ハウスとクラブ、レイヴ・パーティ、ドラッグ(おもにLSD)のムーヴメント。
元々サイケデリック・バンドだった彼らが、この強烈なムーヴメントに反応しないわけがなかった。
日本では全く不遇で、異端扱いだったせいもあり、四人は「セカンド・サマー・オブ・ラブ」の熱気に酔いしれたようだ。
日本から持ってきたなけなしの金で、彼らは機材や服を大量に買い込み(これで金が全部吹っ飛んでしまったそうだ)、イギリス人のミュージシャンの友達の家を借りて早速レコーディングをする。日本で作っていた曲をハウスにアレンジし直したのがあったが、あとはほとんど即興だった。とにかくクラブやレイヴパーティに出たいという目的のためだった。
クラブに最初に出演した時、彼らがつけた名前が「LSD Liberatiion Front」。日本語に訳して「LSD解放同盟」(!!)なんとカッコイイ名前!!
現地で知り合ったアンダーグラウンド・テクノのレーベル・ Nerve Nets Records のプロデューサー、デヴィッド・ローレンツ氏が彼らに惚れる。
「なんとイカレた奴らが日本からやって来た!」とローレンツ氏は興奮、その場で「アルバムを作ろう!」と持ちかける。
四人は有頂天になり、毎日曲作り、レコーディング、それからクラブ通い、アシッド摂取(?爆)に励む。1stアルバムのテーマは?「LSDだ」と答えたのは芙苑晶。
「四人が共通して見たアシッドの幻覚の世界をそのままテーマにして 1stアルバムを作ればいいじゃないか!」
こうしてできたのが彼らの 1st 『十億の神経の針(A Billion Nerve Needles)』。
今では廃盤になってしまったが、針を落とせば(僕が持っているのはヴァイナルなので)そこには確かに、並みのハウスではない、ギラギラドロドロギトギトの幻覚の世界が広がっているのがわかる。言葉で言い尽くせない凄味を感じさせるアルバムだ(これは隠れた名作だと思うので、個人的に再発して欲しいと思っている!!)。
バンド名は、「幻覚植物研究所(Psychedelic Plants Research Laboratory)」同様、アルバム・リリース直前まではっきり決まってなかったらしい。
バンド名は他にも、いろいろ候補があったらしくて、「テクノ・ゲリラ(Techno Guerilla)」とか・・・いろいろあったようだが、どれもなかなか渋いのだ。
Far East Acid House Quartet は、音楽そのものも斬新だったが、彼らが有名になったのは「レイヴ(レイヴ・パーティ)」のパイオニアとしてだろう。
今では彼らを生で見たことがない人にさえ「伝説」としてよく知られた、Far East独自のスタイルの野外レイヴ。つまり、廃墟や工事中のビル、大自然を背景にした野外スペース等々をそのまま舞台にして、通常の野外コンサートの枠をはみ出した全くの自由なスタイルでのテクノ・ライブである。
「幻覚植物研究所(Psychedelic Plants Research Laboratory)で始まった、原始音楽とテクノの融合は、日本のファー・イースト・アシッド・ハウス・クワルテットによって、さらに別の方向へ発展した。」
このファー・イースト・アシッド・ハウス・クワルテットは、以後、1997年までほぼ10年近く続くことになる。
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ソロ・デビュー/ Siamese Twin 時代:『燐光(Phosphorescence)』
( Siamese Twin 名義)( 1988 ) > |
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このファー・イースト・アシッド・ハウス・クワルテットの1st がレコーディングされていた時、芙苑晶はものすごくたくさん曲が出来てしまったらしい。
最初、二枚組にしようという話もあったが、プロデューサーと相談の上、曲の傾向を二つに分割して、一枚を「ファー・イースト」のアルバム、もう一枚を芙苑晶のソロ・アルバムにしようという話がまとまった。
これが、芙苑晶のソロ・アーティストとしてのデビューになった。
1988年の暮れ、シンセサイザー、コンピューターを多用した、幻想的なサウンドによる1st アルバム『燐光(Phosphorescence)』を制作・発表した。
これはファー・イースト・アシッド・ハウス・クワルテットの1st と並行してレコーディングされた作品だが、クラシックや実験音楽などの他に、アシッド・ハウス(今で言う「サイケデリック・テクノ」または「アンビエント・サイケ」に近い)の影響が感じられる独特な音になっている。
芙苑晶はのちに、この独自なサウンドと手法を「マッシュルーム・テクノ(Mushroom Techno)」とか「マッシュルーム・トランス(Mushroom Trance)」と呼んでいる。
(「バスルーム・テクノ(Bathroom Techno)」に対抗した表現だと思われる。)
「まだ当時は、サイケデリック・テクノという言葉はなかったけど、僕はすでにこの言葉を使っていたんだ。『燐光(Phosphorescence)』は僕なりのサイケデリック・テクノの最初の試みだったんだ。もっとも、のちに広まったサイケデリック・テクノと言われる音楽は、僕が当時言っていたサイケデリック・テクノではなかったけどね」
「サイケデリック音楽は、ファッション・コードでしかないものがあまりに多すぎると思う。それまでのサイケデリック・ミュージックは、ギターにファズをつないでみたとか、そのへんにとどまっていた。
僕は『燐光(Phosphorescence)』で、メスカリンの幻覚世界を音で描写するという試みにチャレンジした。
最初のアルバムだったし、どの程度できたか、自分ではわからない。
ただ、言えることは−−−僕がこのアルバムでやろうとしたことは、今まで音楽史上、誰もやったことがない試みだと思う。
」
『燐光(Phosphorescence)』は当時、ほとんど売れなかった。
Siamese Twin という奇怪な名前(「シャム双生児」を意味する英語)でリリースしているが、この当時は芙苑晶は覆面作家としてやっていくつもりだったらしくて、インタビューも写真も出さず、宣伝をほとんどしなかったせいもあるかもしれない。
が、その独特のユニークな電子音楽ならではの色彩感覚に注目したファンもいたようで、今ではカルトな作品としてファンの注目と再評価を集めているようだ。
幻覚植物研究所(Psychedelic Plants Research Laboratory)、ファー・イースト・アシッド・ハウス・クワルテットの1st、そして芙苑晶の1stが立て続けに出た1988-89年。
『燐光(Phosphorescence)』も幻覚植物研究所や、ファー・イースト・アシッド・ハウス・クワルテットの 1st 同様、のちのサイケデリック・トランスを先取りしたサウンドになっているのがすごい。
この時期、芙苑晶はかなり多忙だったようで、日本に帰国後すぐ、ファー・イースト・アシッド・ハウス・クワルテットで初の野外レイヴを開いている。これのプランのほとんどは、芙苑晶が考えついたものだったようだ。
活発に活動し、曲もたくさん書いた。
こうして、新しい前衛的スタイルで、時代の最先端を行くアーティストとしてデビューした芙苑晶だったが、当然、人生コースは大幅に変更されてしまった。
せっかく入ったドイツの大学も中退。89年、日本に帰国中に、親と喧嘩になり、この時、家を出てしまい、以後、絶縁状態になってしまったそうだ。
これは筆者の想像だが、おそらく、時代の最先端を行くテクノ・ミュージックの作家としての活動が、はた目には異様に映ったのではないだろうか・・・? 才気溢れる若き芸術家にありがちな、激しい波乱のエピソードではあるが、この孤独にめげなかったからこそ、のちに芙苑晶の世界が確立されたわけで、ファンとしては頼もしい限りだが、本人はかなりのプレッシャーがあったのではないかと思う。
以後、なぜか突然、しばらく音楽活動を中断し、世界単独放浪の生活を始める。以後、ほとんど無一文のバッグパッカーとして浮浪者のような生活をしながら、ヨーロッパやアジア各地を転々とした。
そして世界各地を単独放浪したあと、アメリカはニューヨークに滞在中、トランス・テクノ・バンド「幻覚植物研究所(Psychedelic Plants Research Laboratory)」を始めた。
これが芙苑晶の、プロのアーティストとしてのキャリアの始まりだった。
テーマとしては、原始宗教的な音楽や、先住民文化、エレクトロニック・ミュージック、サイケデリック・ロックなどにあり、幻覚植物研究所(Psychedelic Plants Research Laboratory)の出発点は、それらの異なった文化と音楽の融合にあったようだ。
(註: のちにアメリカ盤のみAurora Headsとなっているので、日本ではこの名前で知っている人が多い)
他にも考えるところがあったらしく、以後数年間、お気に入りの都市、アムステルダムに移り住んだ。
以後、オランダを拠点にして、ニューヨーク、日本を往来する日々に突入する。
言うまでもなく、ニューヨークへ行くと幻覚植物研究所、日本へ戻るとファー・イースト・アシッド・ハウス・クワルテットという、二つのバンドを抱えての活動。
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この頃から芙苑晶は、クラシックとかジャズとかロックといったような、既成のジャンルには囚われない音楽の創作に意識的に挑戦し始める。
そして1990年にリリースした2ndアルバム『木霊(Echoes)』は、芙苑晶の初期の代表作となりました。このアルバムで、芙苑晶は彼自身のオリジナルなスタイルを確立します。これがシンフォビエントと言われる新手法・新ジャンルの始まりとなった世界初の作品でもあった。
シンセサイザーならではの幻想性とドラマティックな効果を盛り込んだ独特なスタイルは、単純に一個のジャンルで捉えられるものではなく、芙苑晶はこの音楽のスタイルを「シンフォビエント(Symphobient)」と名付けたそうだ。
「
僕のこれまでやってきた音楽それ自体が、クラシックとかジャズとかポップスというような枠組みを外れた、自由なものだった。だからシンフォビエントやシンフォニック・テクノのような発想は、テクノやアンビエントの枠内に新しい流行のタームを作るとか、異なったジャンルを融合するというようなことではなくて、ジャンルを超越したところで生まれてくる自由な音楽という意味合いのほうが強いんだ」
「だからこういう発想自体、僕にとっては自然なことなのだ。元々シンセサイザーという楽器には、これが正しい使い方だとか、こういうジャンルに当てはまるべきだ、といったカテゴリー自体がないからね。それゆえに、シンセサイザー音楽は、独立した一個の新しいジャンルであると同時に、今までの音楽ジャンルのすべての要素を含むものだと思うんだ」
「テクノやハウス、それにアンビエントのような、同時代の新しい電子音楽には興味を持っているし、研究もしているよ。でも、このジャンルのアーティストたちのほとんどは、シンセサイザーを楽器として使いこなしているとは僕には思えない。彼らの多くは、テクノロジーの奴隷になり、決まった型に囚われすぎている。結果的に、シンセサイザーのポテンシャルを狭めてしまっている。しかも、ほんとうに独創的な音楽を創っているアーティストは、数えるほどしかいない。
長い目で見て、こういうものが長続きするとは、僕には思えない。それらの多くは、時代とともに忘れ去られてしまうだろう。ほんとうに歴史に残るのは、流行とは無関係に、自分自身で手作りでやった音楽だけだ。これはあらゆる芸術の鉄則だと言える」
(英語版インタビューより)
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続く3rd アルバム『荒廃(Ruins)』では、当時芙苑晶が仲間たちとともに暮らしていた廃墟のコミューン・スタジオの日常的情景の中の環境音をそのまま取り入れることで、逆に、白昼夢のような幻覚的雰囲気を醸し出すという、独特な手法を用いてアンビエント組曲に仕上げている。
この奇妙な雰囲気は、サイケデリックとかを通り越して、シュールリアリズムの絵画を見るような超現実的な感じを受ける。言ってみれば音で作られたシュールな映画、といった印象がある。
また、このあたりから芙苑晶はさまざまな音楽ジャンルの融合という試みに挑戦し始めているように思えます。『荒廃(Ruins)』ではすでに、アンビエント的な手法が主体ではあるものの、ハウス、テクノ、ロック、そして前衛音楽からクラシックの要素までが、曲ごとに現れるというスタイルに変化してきており、ブレイクビーツらしきループ音も聴かれる。
「私は今や、 新しい可能性に到達しつつある …… 」
(英語でのインタビューより)
さらに続く4th アルバム『伽藍(Cathedral)』は、前作二作をさらに発展させ、壮大に仕上げた作品となっています。フランス滞在中に経験した、アシッド(LSD)のトリップによる神秘体験がモティーフとなって作られたと言われているこの異色作は、シンフォビエント三部作の最後でありつつ、同時に、次のシンフォニック・テクノを予感させる壮大なアレンジによって、幻覚を描写したような、恐怖さえ感じさせる大作だ。
「私は全く霊感的に音楽を創ろうとしている …… 私は技術を持っている、だが、その技術はいつでも捨てて白痴に戻れる自信がある …… 」
こうしたLSDによるサイケデリック体験や、ソロ活動と並行しておこなわれていたファー・イースト・アシッド・ハウス・クワルテットでのイリーガル・レイヴ・シリーズ、さらに、インタビューにも見られる「Ash And Sun Republic(灰と太陽の共和国)」の地球国家思想などなど、60年代のヒッピイズムを現代(90年代)に蘇らせテクノ/レイヴ・カルチャーとシンクロさせたような独自な思想とライフスタイルによって、芙苑晶は「元祖ネオ・ヒッピー」というニックネームで呼ばれるようになりました。クラシック時代から考えると、考えられないほどのドロップアウトである。
「商業主義のすべてが悪いんじゃない。原子力だって平和利用できるように、商業もまた、価値のある利用ができる社会システムだったはずだ。
だが今の世の中の、ありとあらゆるおぞましい現実を作り出している根源を突き詰めていくと、現代の腐敗した商業主義の悪弊に行き着いてしまう」
「今の腐敗した商業主義、それは、人間がどこまで卑しくなれるかの実験場、あるいは、その見本市のようなもの。
今の腐敗した商業主義、それは、言ってみれば、人さらいみたいなもの。言葉とビジュアルで人間をのべつまなく洗脳しつづけ、
最後には手足を切って檻の中に入れ、見せ物にし、
自分では何もできない無力な人間を大量に作り出してしまう
」
(インタビューより)
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今日はこのへんで。つづきはまた書きます。
by HAL
2009/02/16
** バイオ作成にあたり、ご協力頂きました、元・芙苑晶ファンクラブ「牧神の庭」の YOCKさん、砂人さん、KEELさん、芙苑晶ファンサイトの天野ヒロキさんに感謝します。また、過去に出たアルバムのライナーノート、あと、過去にレビューが出た新聞・雑誌等の記事、それからもちろん芙苑晶ファンクラブの会報に出た記事なども、参考にさせて戴きました。
調べまくって書きました。われながら、力作ですが、しかしまだ完成とは言えません。
** 十代から海外を拠点に活動してきた国際的アーティストだけに、実は資料は山のようにあるのですが、日本語での精確なバイオグラフィというのがまだないに等しいのですね。おまけに、本人はマスコミを嫌い、ほとんど公式なインタビューとかもしてきていません。ファンとしてはその神秘的なところも魅力的(って、ほんとはただの偏屈だったりなんかして・笑)なのですが、ウェブを見ると、間違いをそのまま書いてるサイトも発見しました。自分はそうなりたくないという思いが強かったので、慎重を期し、資料を厳選して書いています。
(もう一つ、芙苑晶の場合、たんに音楽家としての活動にとどまらない部分もあります。とくに90年代には、思想的・社会的といった、生き方に関わるようなことで、革新的な仕事や発言もあったりして、その方面でのファンも多いことでしょう。具体的に言うと、レイヴとかネオヒッピーといった分野でも第一人者であったわけで、この方面についても書くべきでしょう。となると、さらに今後、リサーチが必要かと思っています)
** 少し前に書いていたバイオ上の記述の前後関係にいくつかの誤りがあったことを、僕の古い友人YOCKさんから指摘されました。
確認するため、Trance-Rave Productionのスタッフのmusashi さん、芙苑晶ファンサイト管理人の天野弘樹さん、他からも資料をもらい、可能な範囲で改訂しています。 この場を借りて関係者の方ならび、芙苑晶さんファンのみなさんにお詫び申し上げておきます。
しかしまだまだ資料が欠けていると思われる部分はあり、外国語の資料も多いため、今後も改訂を続け、より精確なものにしていきたいと思っています・・・。 |
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