| 芙苑晶・エピソード集 |
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芙苑晶に関する、エピソードを、アトランダムに集めてみました。
インタビュー、雑誌の切り抜き記事、エッセイ、ファンクラブ情報、ウェブその他 etc.. から抜粋したものです。
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| 功績 |
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最初にアシッド・テクノを手がけた日本人の音楽家と言われる。 1988 年のデビューアルバム『燐光( Phosphorescence )』ではアシッド・テクノないしトランス(アシッド・ハウス言うよりは)のスタイルを取り入れているし、さらに 87 年、淫心のセカンド『鳥どもの家』にすでにそれらしきスタイルがある。
ほかにも「日本初」はおろか「世界初」のような業績は、芙苑晶にはやたら多い。
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今で言う「トランス」音楽前史時代の1980年代末、アメリカの幻覚植物研究所(Psychedelic Plants Research Laboratory)、日本のファー・イースト・アシッド・ハウス・クワルテット、さらに自作のソロ作品などで、すでに「トランス」の先駆的作品を作曲していた。ソロではすでに 1st 『燐光(Phosphorescence)』(1988、 Siamese Twin 名義でリリース)にそれらしきスタイルが見られた。
- しかしそれすら独自なものだった。芙苑晶は『燐光(Phosphorescence)』を「ダウナー・トランス(Donwer Trance)」「アシッド・ミュージック(Acid Music)」と呼んでいた。
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90年代以後、芙苑晶が考案し、発明した新しいジャンル名ないし新手法、ないし音楽スタイルには次のようなものがある。
アシッド・ミュージック(Acid Music)、SF ミュージック( Sci-fi music )、シンフォビエント( Symphobient )、シンフォニック・テクノ( Symphonic Techno )、シンセサイザー・シンフォニー( Synthesizer Symphony )、 ダウナー・トランス(Donwer Trance)、バスルーム・テクノ(Bathroom Techno)などがある。
これらは、流布しているものもあればそうでないものもあるし、こういう勝手なジャンル名をでっち上げるアーティストはたまにいるが、芙苑晶の場合はいずれも画期的な音楽スタイルであり、いまだにフォロワーは少ないが、権威あるウェブの百科事典 Wikipedia 等にも登録されている項目で、「ジャンル」と認知されている。
とくに、『宇宙論(Cosmology)』(1998)で展開した「シンフォニック・テクノ」は、アルバムは聴けばわかるとおり、非常にワン・アンド・オンリーな、画期的なスタイルで、海外でも高く評価された。疑う人は、アルバムを聴いてみよう。そのオリジナリティのすごさ、クオリティの高さにビックリするだろう。
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また、このような、音楽における新ジャンルを発明したアーティストとしては、芙苑晶は日本人ではおろか、東洋人全体で歴史上初の人物と推定される。
- 幻覚植物研究所、ファー・イースト・アシッド・ハウス・クワルテットなどでは、現在の「レイヴ」(野外のレイヴ・パーティ)を最初に行なった日本人アーティスト(もしくは世界初)と考えられる。
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| 仕事 |
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作曲家としての仕事は、気に入った仕事しか引き受けない。
アーティストとしての仕事しかしないと決めている。
ファッションショーやクラブ・イベントのための曲を作ったこともある
(『荒廃(Ruins)』に含まれている何曲かはそれが元になっている)
ため、CM音楽の依頼などが来たこともあったが、
内容が気に入らないと受けない。
「そういうものばかり作っていると、魂が腐っていく
魂は、金では買えない
ぼくは、魂を売るほど、貧しい人間ではない
」
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(海外でのインタビューより:)
「あなたほどの才能があれば 才能の切り売りをすれば、すぐにでも成功して金持ちになれるのに、
なぜ自分の気に入った仕事以外しないのか、と言う人が多いが?
」
と聞かれて、
「だとすれば
その人々の思う成功と 僕の思う成功は 尺度が違うのだ」
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| レイヴ |
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レイヴでは、とくに80-90年代の、日本のバンド、ファー・イースト・アシッド・ハウス・クワルテットの野外レイヴが有名(と言うか伝説的)だが、しかし、芙苑晶が他のメンバーたちとプランし実現したレイヴは、画期的なものだった。
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まず、彼らのレイヴはイリーガル・レイヴと呼ばれていて、場所や日時なども一般公開されないものだった。おもに友人・知人を介して、口コミで広まっていき、会場も、廃墟の建物、工事中のビル、取り壊し予定のあるレストラン、それから森の奥などが多かったようだ。
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とくに、「ファー・イースト」のレイヴで印象に残っているのは、大自然の残る環境の中での「野外レイヴ」だ。
大自然を背景に行われるレイヴというスタイルを確立したのは、おそらくこのファー・イースト・アシッド・ハウス・クワルテットであると思われる。
こうした「野外レイヴ」は、現在ポピュラーになった(と言うか、商業主義に取り込まれてしまった)「レイヴ・パーティ」の先駆だったが、今のレイヴとは違った異色なものだった。
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芙苑晶の当時の奥さんでダンサーの田嶋エリサは、ファー・イースト・アシッド・ハウス・クワルテットのレイヴの中で、花形スターと言える位置で、一番目立つことをやるパフォーマーだった。
僕自身、彼らのレイヴを何度か見に行って、よく覚えているが、田嶋エリサの強烈なパフォーマンスが今でも印象に残っている。
ダンスそのもののクレイジーなのだが、ダンスをはさんで行われるいくつかのパフォーマンスがまた、すごかった。
セクシーなヒッピー・スタイルで登場した彼女は、踊りながら、だんだん服を脱いでいって、最後は半裸になってしまう。
そして、鶏をナタで殺して、生き血を裸の上半身に浴びるという、まるで悪魔宗教みたいなパフォーマンスがすごかった。
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| 無為の人生 |
- 『宇宙論(Cosmology)』を仕上げた時、28才だった芙苑晶は、
ヨーロッパで、ある人のパーティに招かれて、ある有名人に紹介された。
その人が芙苑晶に聞いた。
「何をしている人ですか?」
「何もしてません」
と芙苑晶が答えると、そばにいた友人が
「この人は、日本の作曲家で、
シンセサイザーの音楽で、今有名になりつつある人です」
と補足した。
その有名人は、
「すばらしい、どうして何もしていないなどと?」
と聞くと、芙苑晶は
「僕の音楽は、ビジネスではない。
自分のためにやっている。
だから僕には職業はない。
僕は 職業を持たない人間です。
だからやはり、僕は今も、何もしていないのです
」
と答えた。
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| ボヘミアン、ヒッピー |
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芙苑晶は、腕時計も携帯電話も持っていない。その理由は
「 時間を気にするような人間や、いつでも居場所がわかるような人間になりたくないから 」
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芙苑晶は一度も就職した経験がなく、まともに働いたことがない。
音楽家以外の職業についた経験がないが、音楽も「職業」とは考えていない。
彼にとっては、「仕事」は崇高なものだが、「職業」はたんに社会的な区分に過ぎない。
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ネオ・ヒッピーの元祖と呼ばれる。ネオ・ヒッピーという言葉の元になった人だという説がある。
言うまでもなくそれは彼の独特なライフスタイルから来ている。
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芙苑晶は若い頃、オランダの田舎の森の中の一軒家に、恋人と二人で住んでいた。
彼女はダンサーで、あちこち行っていたので、森の中で独り暮らしの日々が多かった。
友人がたまに訪ねてきて、「よくこんなところで一人で暮らしていて恐くないね」と聞くと、
「一人より、二人のほうが、二人より三人のほうが、ずっと淋しい」と答えた。
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テクノやアンビエントのパーティによく遊びに行ったり、各地を一人で放浪したりといった、今で言ういわゆるトラヴェラー生活をしていたらしい。
そうした放浪生活の中で曲の着想を得ては、またスタジオに戻って音楽を作るという二重生活をしていた。
( 97 頃を最後にやめてしまったといわれる)
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一時は、アムステルダムで浮浪者の仲間に入り、道ばたでアコーディオンを弾いて日銭を稼いだり、オランダの森の中にあった廃墟の水車小屋で無一物の暮らしをしたりしていた。
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| ホビー、コレクション |
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徹底した無趣味人間、と自称するが、映画マニアらしい。とくに、 SF 映画やヨーロッパのヌーヴェルバーグはよく見ている。ただし本人曰く「映画を見るのは創作の仕事の一部だから」結局これも仕事だという定義らしい。
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若い頃、フェリーニのファンで、映画作家になりたいと思っていたことがあった。結局ならなかったが、音楽以外に映像作品も「趣味で」作っている。ビデオアートの個展を開いたことがある。
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精神病、とりわけ精神分裂症に関心を持ち、二十代半ばから三十代にかけて、分裂病患者の描いた絵を熱心にコレクションをするようになった。このコレクションは現在も続けられ、中には、日本円に換算して数十万円相当もする絵を買ったこともあった。
芙苑晶はそれらの絵について、「 こういうものは最高の芸術作品の一つ 」と語った。
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音楽の話はあまりしない芙苑晶ですが、実は意外にも、テクノ、ダンスミュージックのアルバムのコレクター。
一説によると、ほとんどのアルバムをコレクションしているとか。
(・・・って、まあそれは仕事柄もあるんでしょうけど。)
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確かな話は、エイフェックス・ツインのアルバムはほとんど全部(!)集めているそうです。
(過去のインタビューで証言あり)
エーでもそれって何100枚じゃないのかー・・・?(恐)
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なお、本人たちが遭遇したかどうかは不明ですが、芙苑晶の初期のCDは、エイフェックス・ツインが買ったことがあるそうです。
キャラクターは違うものの、同世代であり、東西の天才という意味では興味深い組み合わせ。
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| マスコミ |
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デビュー当時以後数年は、インタビュー嫌いで有名で、とくに二十代の頃は、メジャー誌や TV のそれは受け付けなかった。「 不勉強な人が多すぎる 」というのが理由。
今もインタビューの相手は選んでいる(「 選ぶ基準は、相手がどれだけ勉強しているか、または、どれだけ人類に奉仕する気持ちを持っているか、による 」と語っている)が、昔ほど気難しくはなくなったようだ。
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しかし、それは別としても、インタビューというもの自体に疑問を持っている。
「 まじめな芸術論としてのインタビューを除いては、インタビューとか対談というものは全部バカバカしい。人はどうか知らないが、僕はたとえば自分がどんなにワグナーのファンでも、ワグナーのインタビューを読みたいなんて思わない。
そもそもいったい、何を知りたいんだ? 音楽を聴けばそれですむ話じゃないか 」と言ったことがある。
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プロになってからの 1980 年代後半− 90 年代半ばにかけても、放浪生活が多く、ある期間集中してスタジオにこもり、音楽を作っては、仕上がるとプイとどこかに出かけて行方をくらましてしまう、そんな生活をしていた。
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そのため、アーティストのくせにプロモーション活動もほとんどやらず、インタビューにもごく気まぐれにしか応じなかった。
約束した雑誌のインタビューをすっぽかしたり、インタビュアーの態度が気に入らないと言って途中で帰ったりなどし、不評を買った。
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ある時、彼が契約していたNYの Nerve Nets レーベルのオーナーが
「そんなことをしているとアルバムが売れなくなるぞ」と脅すと、
「 売るのはあんたの仕事。僕は作るのが仕事 」
と、泰然とした様子で答えた。
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| ファッション、服装、髪型 |
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腰まで伸ばした長髪がトレードマーク。 90s 後半の野郎どものロン毛の流行よりはるか昔、すでに 1990 年頃(まだ男はフツーのショートが当たり前で長髪はダサいと言われていた時代)、ファー・イースト・アシッド・ハウス・クワルテットのライブなどでは、ムッチャ長い髪にインドな上着、ズタズタにすり切れたジーンズ、丸いブルーのサングラス、サンダル履きという、凄いインパクトのある格好でクラブに出演し、当時すでに日本にも出てきていた「トラヴェラー」とか「レイヴァー」と呼ばれる若い子たちに強烈な影響を与えていた。(とくに、 Far East Acid House Quartet では、同じバンドのスペース DJ リョウがスキンヘッドだったので、強烈なインパクトがあったものだ)
最高では膝ぐらいまであった。平均は腰ぐらいまで伸ばしている写真が多い。
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若い頃の芙苑晶のあの凄い長髪に影響されて伸ばし始めた野郎たち(とくにクラバー、ヒッピー系)は意外に多く、かく言う筆者もその一人。芙苑晶より数才年下になるが、早くからロン毛にしてた。
でも、あそこまで伸ばす勇気のある人はいなかった。
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服装は、やはりなんとなくヒッピー風のイメージがあるが、本人は服にはまるで無頓着。
あの長髪は、美容院に行くのが嫌いで放っておいたらああなっただけとのこと。
「着る物とかファッションとかに、全く関心も興味もない。なんでもいい。ただ単に、そこらへんにあるものを着てるだけ 」
とインタビューで言っていた。
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実際、当時は、ファンからのもらい物がほとんど。
ちなみに 94 年のインタビューでは「 靴は二足しか持たない主義だし、服はまあ、十着もない 」と言った。
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長髪には逸話がある。高校時代、すでに胸ぐらいまで長い髪をしていて、学校(不明だが、某進学校へ行っていたらしい)の教師に意地悪をされたため、反抗して学校へ行かなくなり、及第点ギリギリで卒業してやると宣言。事実その通りにした。
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あの凄い長髪を切ったことが二度ほどある。 1988 年頃( 18 、 9 才頃か)やや短い(芙苑晶にしては)マッシュルームカットの写真がある。
次に、 1998 年の『宇宙論( Cosmology )』発表当時にバッサリ切ってショートになった。この頃、オレンジに染めたりなんかしていて、宇宙人みたいなヘアスタイルで、筆者はこのレアなポスター(プロモに作られたらしい)を持ってるが、ほとんど失禁モノである。
以後は再び長髪に戻り、現在( 2006 年)までずっと同じヘアスタイル。
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ファンの女の子(とくに、若い頃、「ファー・イースト・アシッド・ハウス・クワルテット」時代の、熱心なグルーピーの女の子たち)の間では、楽屋を訪れ、芙苑晶のあの長髪に触らせてもらうというのがステイタスになっていた …… らしい(???)。
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| 出会った著名人、有名人、アーティスト |
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黛敏郎(作曲家):芙苑晶がまだ幼い頃、作曲の才能を発見した大音楽家。
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住谷智(作曲家):少年時代、芙苑晶が電子音楽を学んだ音楽の先生。
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土方巽(舞踏家):少年時代に会った人。
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ティモシー・リアリー(LSDのグルと呼ばれる。学者、思想家):1992年頃、東京で会見。当時の妻、田嶋エリサとともに、ヴァーチャル・リアリティの世界についてディスカッションした。電子音楽でヴァーチャル・リアリティを描くという手法はすでに芙苑晶がシンフォビエント・シリーズ三部作(『木霊(Echoes)』、『荒廃(Ruins)』、『伽藍(Cathedral)』)でおこなっていたが、続く『宇宙論(Cosmology)』で一つの完成を見る。ティモシー・リアリーはこういう芙苑晶の手法に影響を与えたと見られる。
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ダモ鈴木(ミュージシャン、歌手、元・CANのヴォーカル):友人。ライブで共演。
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クラウス・シュルツェ(音楽家、シンセサイザー奏者):フランスでのコンサートが終わってから会見。
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ヴァネッサ・パラディ(女優):ヨーロッパのコンサートが終わってから。芙苑晶がファンだったので彼女と会った。
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| 機材、楽器類 |
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日本でおこなわれた、初期の Q & A インタビューより抜粋。
芙苑晶はインタビュアーに「あなたの愛用の機材を教えて下さい」と聞かれて、
「 マグナム 44 と改造型アーマライト、それにリボルバーなんか好きですね 」
(↑拳銃の名前だっつーの!・爆)
初期のインタビューでは、なぜかこういう「茶化し」がけっこうあった。
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使用機材に関して秘密主義だったとも取れる回答だが、一説によると、機材オタクたちに対して反感を持っていたとも言われる。たしかに、当時のインタビューを調べてみると、
「 みんな機材がどうだとか、そんな話ばかりして、音楽のことなんか誰も聞かない。ほとんど誰も音楽に興味を持ってないんじゃないかと思うことがある 」
という回答もあった。
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最初に買ったシンセサイザーは、中古で見つけた Roland の SH-5 というアナログ・シンセ。
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| その他 |
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他にも、芙苑晶さんに関するエピソードをご存知の方がおられましたら、掲示板に書き込みして下さい。
時々見ますので。
(公認ファンサイトのほうの掲示板)
(All-Around-Music さんの掲示板)
2007・3・21 |
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