Far East Acid House Quartet - ファー・イースト・アシッド・ハウス・クワルテット
 
ファー・イースト・アシッド・ハウス・クワルテット( Far East Acid House Quartet )ファンサイト/資料館
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ウェブマスターたちからみなさんへ
 − 三珠アケミ (フリーライター、ミュージシャン ex-「緑葬」)

ファー・イースト・アシッド・ハウス・クワルテット ( Far East Acid House Quartet )
 

● Lavalamp Records の反響

「ファー・イースト・アシッド・ハウス・クワルテット」のサイトを作ろう・・・。
そんな、ほとんど無謀とも思える提案をもらったのは、今から2年ほど前のことでした。

かつての「ファー・イースト」ファンであった、元・クラバーのある女の子が、私宛にメールをくれたのです。
「”ファー・イースト”」が出てるよ。それも外国のサイトに・・・。」
ほんとに? と思わず独り言を言いながらリンク先のページを見ると、たしかにそれはあの「ファー・イースト・アシッド・ハウス・クワルテット」でした。見覚えのあるアルバム・ジャケットやヴィジュアルが出ています。
そう、それは、元メンバーであった芙苑晶が、アメリカのミュージシャンたち数名と、NYに立ち上げたレーベル Lavalamp Records でした。

私は彼に久々にコンタクトし、事情を聞きました。なんでも Lavalamp Records が「ファー・イースト・アシッド・ハウス・クワルテット」の音源を全部買い取ったのだという話。将来CDを再発するかもしれないという話を聞いたときは胸が高鳴りました。
 それがすでに2002年。花形だったDJのリョウちゃんはすでに引退して、ブティック経営者の美人の奥さん(イギリス人)とロンドンの郊外で静かな生活を送っていると聞きました。

やはり見ている人は見ているもの。この Lavalamp Records のサイトは、それなりに反響があったようで、どこからともなくそれを人々からのメールが、私のところにやってきました。私は当時、この異色のバンド「ファー・イースト・アシッド・ハウス・クワルテット」を自分がやっていた機関誌「地下室」「地底音楽」「終末文学」その他で何度か取り上げ、小さいながらメディアに紹介した人間として、みなさんの記憶にあったようでした。

 

●このサイトをいま立ち上げることの意味

 二年前と思いますが、故・市川カヲルの八周忌があり、私も参加しました。その時にもサイトの話が出ていて、アメリカの Lavalamp Records のほうに日本のファンから問い合わせが行っていたりとかいう話まであって、いろいろ動きがあるようです。私の大阪の事務所にもお電話いただいたりしたオールド・ファンの方々にも、この場を借りて応援してくださるお礼と、日々の雑事にかまけてなかなかお返事できない失礼を申し上げたいと思います。

 でも、あの当時・・・つまり彼らが現役で活動していた1980年代後半−90年代前半には、ほんとうに私たちファンは、すべてを口コミで伝え合っていました。ましてやイリーガル・レイヴです。口コミしか情報源はなかったのです。

 あの頃もし、今のようにインターネットがあったらと思わずにいられません。「ファー・イースト・アシッド・ハウス・クワルテット」こそ、インターネットにふさわしいバンドだったでしょう。もしインターネットがあったら、彼らは「マスコミ拒否」だの何だのやらなくて済んだでしょう。いやむしろ、ネットを活用することで、彼らならではのデジタル・コミューンみたいなものが作れたかもしれない。そんな話が、その時の市川カヲルの八周忌の席で出ていました。

 ま、あまり暗い話はしたくはないですが、しかし今年(2005年)はちょうど市川カヲルの十周忌であり、さらに、来年06年は故・田嶋エリサの十周忌、そしてバンド解散以後10年目にあたります。08年が来れば結成後なんと20年(!)が経過した計算になります。
 あらためてこう書けば、まあ私たちも年をとったものだと思わざるをえません。今は新しい世代(ほとんど彼らが結成された頃=80年代後半に生まれた若い人たち!)の中からファンが出てきているという話を聞き、歳月の流れを感じざるをえませんでした。

 

●友達として、アーティストとして

  私は彼らとプライベートでもたしかに友達だった。でも、友達のよしみで取り上げたのじゃなかった。
 彼らがこの不毛な日本のクラブ界において、ほんとうに粘り強く地道にいい仕事をしていると思ったから、これは紹介すべきだと判断して取り上げただけ。いや、逆に、そういう奴らだからこそ、親友でいられたんだと思う。

 そう、順序が逆なのです。でもこの微妙な違いは、私にはとても重要。

 このことについて話をすれば、もうきりがない。きりがないと同時に、いったい今、現在の日本で、私の言いたいことをほんとうにわかってくれる人たちが何人いるだろうかという懸念と倦怠感もまた大きい。ましてや、あの頃ほんとうにシンパシーを覚え、ともに闘う仲間のように思えていた彼ら Far East Acid House Quartet のメンバーたちのうち、悲しいことに四人中二人(しかも二人とも私と同性、女の子たちだった)が若くして非業の死を遂げ、一人が引退し、残る一人だけが現役アーティストとして活動しているという状態になった現在、ほんとうに私はひとりぼっちになったような気がしてもいた。

 闘う仲間と私は書いた。センチメンタルなヒロイズムと思われるだろうか。自分ではそのつもりはない。
 闘うって、何と? そのことをうまく言葉にしようとしても、何か指の隙間からこぼれ落ちてゆくものがある感じがしてならない。
 あえて言うなら私たちは、たとえばこの日本という一見とても平和で穏やかな国で、私たちの魂を蝕むあらゆる曖昧なものたちに対して、シンプルなノーを言い続けたかったのではなかっただろうか。

 そう思ったとき、私たちの世代にはクラブ・カルチャーがあった。今や完全に商業のシステムに組み込まれたクラブというもの。だがまだそのクラブそのものがアンダーグラウンドな存在だった時代に私たちは青春を送ることのできた、ある意味とても特権的な、ある意味とても悲惨な世代だ。
 世代で言うと、1960年代後半から70年代前半生まれの人たち。そのなかに、なにかに気づきかけていた人たちが確かにいた。

 時代もまた、それにシンクロしつつあった。88年にロンドンでセカンド・サマー・オブ・ラブがあり、彼ら「ファー・イースト・アシッド・ハウス・クワルテット」は、まさに偶然のなせるわざとはいえ、そのムーブメントに居合わせ、リアルタイムにそれを体験した稀有な日本人のバンド(いや、唯一だったのではないだろうか)として、突然変異のごとく誕生した。

 

●現在形で考えること

 私は彼ら Far East Acid House Quartet と友達だった。そしてある意味で、アーティストの仲間でもあった。私はたとえば、ミュージシャンのマダム呪々や、詩人の野崎ニーナのように、具体的な創作活動において彼らとコラボレーションしたわけではなかった。
 だが彼らは私のことを「物書きとして一番信用している」と公言してくれてもいた。それが私の誇りで、ほとんどお金にならない執筆活動を支えた「プライド」の源だった。

 私たちには共通点があった。それを一言で言うのはこれまた案外難しいけれど、もし誤解を恐れずに言うなら、ようは不良ってことだろう。今やなんだかこっ恥ずかしい言葉になってしまったけれど、ようは私たちはドロップアウト同士であった。
 そしてたんなるドロップアウトなだけではなく、前向きでクリエイティブで強烈なキャラクター同士のぶつかり合いでもあった。

 当時の、アンダーグラウンドのクラブという場が、格好の交流の場所になり、それを可能にした。個性のぶつかり合い、何かを想像=創造しつづけることを。
 ごく短い時代だったけれど、私たちは確かにそこを媒介として交流しつづけていた、おもに、クラブという場所を通して。

 あれからわずか十数年しか経っていないというのに、クラブ・シーンはすでに、見る影もないほどに形骸化し、ハウスやテクノは日本の歌謡曲のアレンジのリズムにパクられているのを見るのみだ。
 また、逆に言えば、そんな保守的な時代へ戻ってしまっているからこそ、今、新しい若い世代の間で「ファー・イースト」が話題にのぼり、熱烈な支持者たちを生みつつあるのかもしれない。

 私たちは、いい時代に生きたと思う。いい時代、というのは、コミュニケーションと闘いがふたつながら確実にあった時代、という意味だ。
 そんな時代に、私は彼らとともに仕事をし、ともに闘った。そうだ、私たちは仲間だったのだ。仲間と言ってウソっぽく聞こえない、そういう仲間がほんとうにあの頃いたのだ。

 その気持ちは、今も変わらない。

三珠アケミ(みたまあけみ・フリーライター)

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