Far East Acid House Quartet(ファー・イースト・アシッド・ハウス・クワルテット) : 「Far East 」のいくつかの顔 |
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ファー・イースト・アシッド・ハウス・クワルテットといえば多くの人が思い浮かべるのはその名の通り「アシッド・ハウスの先駆者」としてのイメージだろう。しかし彼らにはそれ以外にもさまざまな顔があった。このページでは、プロフィール・ページで語りきれなかった、彼らのさまざまな「顔」について、キーワード別に探ってみたい。
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| ●イリーガル・レイヴの第一人者 |
●彼らは日本初のアシッド・ハウス・グループであり、同時に、世界にも稀有な(そしてこれまた日本初の)イリーガル・レイヴ・バンドであった。彼らの音楽的出発点はアシッド・ハウスやサイケデリック音楽にあったが、彼らの表現者としての出発点はある意味でこの「イリーガル・レイヴ」にあったのだ。
88年ロンドンで結成された彼らは、日本に帰国後、その11月12日頃(推定)に日本初のイリーガル・レイヴ・パーティを大阪の万博跡でおこなっている。わずか40名ほどが集まっただけだったといわれるこの伝説的なパーティはしかし、その後次第に大規模になってゆく「レイヴ」の元となったパーティであった。
そしてその後、日本とヨーロッパを往来しながら内外で数々のイリーガル・レイヴ・パーティを挙行、伝説を創り上げた。
その過程においては、しばしばレイヴに来ていた客(ファン)たちや、時には彼ら自身、バンドメンバー全員が警察に逮捕され、書類送検されるというハプニングもあった。そのことがまた、このバンドのイメージをドラマティックに盛り上げていたのも事実だ。
だが筆者の知る限り、これは暗い記憶ではない。彼らは、そしてファンたちは、そんなこと大して気にもしていなかった。みんなとても陽気にやっていたのである。そして今ほど、レイヴというものが社会的に認知されていない時代のことで、アンダーグラウンドならではの気高い誇りとでも言うべきものが、そこには漂っていた。ファンはそういう彼らの崇高な姿にますます惹かれていったのである。
したがって後期の、ライブをやめてレコーディング・バンドとなった彼らよりも、初期のひたすらレイヴ・パーティをやっていた彼らのほうが好きだというファンは今もあとを経たない。
このサイトのタイトル「無法的熱狂祭(Illegal Rave)」も、そんな彼らのイメージを象徴してつけたものだ。
こうしたイリーガル・レイヴに特化したバンドとしては、およそ世界にも稀な、ワン・アンド・オンリーなグループであったと言えるだろう。
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| ●革命的なバンド・スタイル |
● Far East Acid House Quartet はさまざまな意味で革命的なバンドだった。しかしそれらのなかにあって、意外と見落とされがちな点だが、彼らのバンド・スタイル(あるいはメンバー編成そのもの)自体が革命的なものであった。何でもないことのようだが、これは彼らのグループとしての個性を語るうえで欠かせない要素である。
ダンサー(田嶋エリサ)、DJ/リズム・プログラマー(スペースDJリョウ)、キーボード(芙苑晶)、ウィンド/サックス(市川カヲル)という構成によるバンドなど、それまでの音楽界にはなかっただろうし、もしかしたら今でもないはずだ。(ほんとに、そんなバンドがあるだろうか?)
そして、たんに変わっているというだけではない。このバンドがこういう編成だったのはちゃんと意味があった。
初期のインタビューでもメンバーたちが異口同音に答えているように、彼らのバンドにおいては、田嶋エリサのダンスがいわばロックバンドにおける「ヴォーカル」ないしは、ジャズバンドにおけるリード・ラインの役目だったということだ。
3人のミュージシャンたちが繰り出す即興演奏に、田嶋エリサが即興ダンスで応じるというライブ・バトルは、彼ら以前にもなかったし、また彼ら以後にもなかったものだった。
また、インタビューにおいては、バンド初期のリーダーであり、アレンジャーだった芙苑晶は
「田嶋エリサのダンスに合わせて僕らは作曲するし、また、僕らの作曲した音楽に彼女がダンスを考えていく。だから彼女のダンスがは僕らの音楽の一部分であり、ジャズ・バンドにおけるアルト・サックスのようなもので、それもまた楽器の一部なんだ」
と、印象的な発言をしていた。
つまり、田嶋エリサの即興的なダンスから触発されて彼らは音楽を作っていったのであり、また、彼らが作り出す音楽に触発されて田嶋エリサはステージでのダンスを考えていた。こうして、ダンスがあたかも音楽の一部であるかのように、つまりダンサーの肉体の運動が「楽器」として使われるという意味で、ファー・イースト・アシッド・ハウス・クワルテットとは、かなり革命的な創作スタイルを持った、そしてほんとうの意味で究極のハウス・ミュージック・バンドとも言えるのだ。
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| ●反体制のリーダー |
●そしてまた、彼らは、あらゆる意味において、アンダーグラウンドの精神を徹頭徹尾貫いた稀有なグループでもあった。 彼らは、営利至上主義のこの世界に徹底して反発し続けたバンドであり、既存のどんな価値観も認めないという、60 年代のヒッピーの再来のような存在でもあった。
そんな彼らの先駆性はイリーガル・レイヴにとどまらず、皆で内外にコミューンを形成、国家内国家を宣言したり、のちにはマスコミ拒否のバンドとして逆に一部でカリスマ的に有名になったりもした。
この点で、反体制のリーダー、サブカルチャー・リーダー的な評価も高く、60/70年代ブームの先駆的存在でもあり、またのちに誕生した「ケミカル世代」とか「ネオ・ヒッピー」「テクノ・ヒッピー」といった言葉とその日本における流行も、彼らのライフスタイルから生まれたとも言われている。
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| ●後期の知られざる実験的作品群 |
そのバンド名のとおり、アシッド・ハウスとかレイヴのイメージが強い彼らだが、ライブ活動を止めた92年以後、すなわち後期のスタジオ・アルバムにおいては、より実験的なインテリジェント・テクノとも言えるような音の世界を追求するようになっていった。これがファー・イースト・アシッド・ハウス・クワルテットのもう一つの顔である。とくに最後の三枚『無法的熱狂祭』(93)『肺魚の夢』(95)そして最後のアルバム『太陽黒点』(97)にはそれが顕著で、初期のストレートなレイヴ・ミュージックを作っていた彼らの面影さえないほどの変貌ぶり、アヴァンギャルドぶりに、当時のファンは驚いたものだった。
実際にはそれらのアルバムも通販専門で売られていたりして一般には手に入りにくいせいもあり、評価が定まっていないが、IDM/インテリジェント・テクノの先駆者(この点でも日本においては稀有な)としても評価されるべき存在であろう。
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| ●悲劇的終末とそして現在〜再評価 |
そして彼らの晩年にあたる95−97年にかけて、四人中二人のメンバーがあいついで夭逝するという悲劇に見舞われる。
95年、市川カヲルが死去。睡眠薬の過剰摂取による死で、自殺説もあった。ファンの間に衝撃が走った。
さらに、97年の夏、田嶋エリサが死亡する。
自宅のマンションの浴室で、急性心不全によるショック死。わずか30才の短い生涯だった。
(市川カヲルの死からわずか1年半後だったので、後追い自殺説まで出たが、これは違うようだ。)
この時になると、もう衝撃なんていうものではなかった。
「ほんとうに? 嘘、嘘!」
それくらいのショックがファンの間に蔓延した。田嶋エリサはとくにこのバンドの花形スターであったからだ。
そもそも彼らはアンダーグラウンド・バンドであったうえ、バンドの末期にはほとんど活動をしていなかったがために、世間で話題にすらならなかったものの、実はショックのあまり後追い自殺した女子高生などもいたほどだった。
こうして、ほとんど自然解体の形で解散に追い込まれた彼らは、事実上伝説のグループとなってしまったが、彼らの音楽は遺された。
97年の解散後、しばらくはほとんど忘れ去られた存在になっていたが、ミレニアムを過ぎて以後、しだいに欧米を中心に再評価の兆しが高まってきており、近年は母国・日本でも若い世代を中心に新しいファンを増やしつつある。
ファー・イースト・アシッド・ハウス・クワルテットは、「まだまだこれから」無限の可能性があるバンドなのだ。 |
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