Far East Acid House Quartet - ファー・イースト・アシッド・ハウス・クワルテット
 
ファー・イースト・アシッド・ハウス・クワルテット( Far East Acid House Quartet )ファンサイト/資料館
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グループの歴史
ファー・イースト・アシッド・ハウス・クワルテット ( Far East Acid House Quartet )  
 
青字で記した部分は、インタビューなどでのメンバーならびに関係者、ファン等の発言。
Far East Acid House Quartet - ファー・イースト・アシッド・ハウス・クワルテット プロローグ:1988年

●3月7日、京都の地下にあったレゲエ・クラブで最初のミーティングが行われる。5人の日本人の若者によってサイケデリック・ロック・バンド「淫心」が結成される。
このバンドのセカンド・アルバム『鳥どもの家』レコーディング中に、ギタリストであったマダム呪々が脱退、残る四名の

田嶋エリサ
 (ダンス、パーカッション、民族楽器)、

スペースDJリョウ
 (ターンテーブル、ビート)、

フゾノ・アキ(現=芙苑晶)
 (キーボード、シンセサイザー)、

市川カヲル
 (ウィンド、ベース・シンセサイザー)

の4人編成になる。

 

 

 

●1988年

●5月20日、「淫心」セカンド・アルバム、『鳥どもの家』(House of Birds)リリース(自主制作盤)。

●6月、ほんの遊びで出かけたロンドン滞在中、セカンド・サマー・オブ・ラブの別名で知られる、アシッド・ハウス・ムーヴメントに遭遇、アシッド・ハウスという音楽、レイヴというライブ形態、これらこそが自分たちの求めていたスタイルと自覚したという。そしてなけなしの金で機材を買い込みアシッド・ハウスのスタイルを中心に据えて再出発する。

 7月20日、バンド名が改められる。当初、現地のクラブやガレージに出演した時のバンド名は「 LSD Liberation Front(LSD解放同盟)」だった。
 が、1stアルバムのレコーディング中、プロデューサーの意見により、「Far East Acid House Quartet, Otherwise the LSD Liberation Front(ファー・イースト・アシッド・ハウス・クワルテット、もしくはLSD解放同盟)」となった。

  実はこれが正式名称なのだが、途中から略式に「 Far East Acid House Quartet (ファー・イースト・アシッド・ハウス・クワルテット)」とのみ表記されるようになった。

その後に発表された CDなどには略式表記のものと、正式名称の長いバンド名がそのまま記されているものとが混在している。
また、レイヴのフライヤーではたいてい正式名称のフルネームが記されることも多かった。
(なお、フライヤーなどでは漢字表記で「極東幻覚的電子舞踏音楽四重奏団」とされることもあったが、これはお遊びのロゴに近いもので、正式名称ではない。)

「ようするに、二つバンド名の候補があった。僕らはデモクラシーだったから、その二つを合体させちゃえということでね。でもそうすると、僕らが好きだった60年代後半の西海岸のサイケデリック・ロックのバンドみたいに長い名前になってカッコイイというので、これに決まったった」

(芙苑晶。インタビューより)


「セカンド・サマー・オブ・ラブ」とは、ヒッピー、サイケデリック・カルチャー、フラワー・パワーが最高に沸騰した1967年の夏(サマー・オブ・ラブの異名を持つ)に由来する名前であった。

このムーブメントは、クラブという既成の「ハコ」の中にとどまらず、倉庫、廃墟の建物、野外のフリースペース等々で開催される「レイヴ」(または「ウェアハウス・パーティ」とも呼ばれる)へと発展していく。
「ファー・イースト」のメンバーが魅せられたのは、アシッド・ハウスの幻想的なサウンドと、自由でアナーキーかつ自主的な意志を持った「パーティ」という形式だった。

●9月上旬まで四人はロンドンに滞在、1stアルバムのレコーディングを続ける。9月半ば、芙苑晶・田嶋エリサ、スペインのイビザ島の貸家に11月まで滞在、同棲。
同じ月、スペースDJリョウはロンドンに残り、そのあとドイツなどを独りで回り、10月帰国。市川カヲルは体調不良を理由に日本に帰国。

●10月頃から(?推定)イギリス政府、ケミカル・ドラッグ「エクスタシー」(MDMA)とともに、これらのレイヴ・パーティを取り締まる動向をみせる。

●ロンドンでのイリーガル・レイヴ・パーティに影響を受けた彼らは、帰国後の11月19日(?推定)、初のレイヴ。大阪の郊外に、彼らの友人たちわずか30〜40名ほどが集まったこのパーティが、日本初のレイヴ・パーティだったという説がある。

以後、バンドは日本各地でイリーガル・レイヴ(彼らはウェアハウス・パーティという言い方を嫌い、この言い方を好んだ)を開催。バンド・メンバーや客たちは数度にわたり逮捕されるという場面もあったが、しかしこうしたパーティを日本で最初にやったバンドは彼らであったといわれ、少数ではあったが熱狂的なファンを獲得し、しばらく後、黎明期のクラブにも出演し始める。

「だけどほんとはやっぱり、クラブよりレイヴのほうが合ってた。私たちはレイヴ・バンドなんだと、ずっと言っていた。あの当時、日本で、私たちのしていることの意味を、誰も理解しなかった」
(田嶋エリサ。インタビューより)

ダンサー、DJ、ウィンド奏者、キーボード奏者の四人編成の即興演奏を主体とするこのダンス・バンドは当時、「世界にも例を見ないユニークなメンバー構成とスタイル」と言われ、一部レイヴァー/クラバーたちの間で熱狂的な賛美を浴びた。

3人のミュージシャンたちが繰り出す即興演奏に、田嶋エリサが即興ダンスで応じるというライブ・バトルは、彼ら以前にもなかったし、また彼ら以後、今日に至るまでないものである。

また、インタビューにおいては、バンド・リーダーであり、アレンジャーだった芙苑晶は「田嶋エリサのダンスに合わせて僕らは作曲するし、また、僕らの作曲した音楽に彼女がダンスを考えていく。だから彼女のダンスがは僕らの音楽の一部分であり、ジャズ・バンドにおけるアルト・サックスのようなもので、それもまた楽器の一部なんだ」と印象的な発言をしていた。

●11月22日、ファー・イースト・アシッド・ハウス・クワルテット、1st アルバム『十億の神経の針(A Billion Nerve Needles)』をNYのアンダーグラウンド・レーベル Nerve Nets Records よりリリース。かれら自らのLSDやメスカリン摂取による自我の崩壊と覚醒の体験といったテーマを持ち、アシッド・ハウスの草分けならではの特異なサウンドを生み出すとともに、すでにファー・イースト独自のスタイルを確立する。
そのサウンドは現在では、70年代クラウトロックとハウス、ないしはハウスとサイケデリック・トランスのミッシング・リンクとも評されるものである。

 
●1989年

●この年より、日本とヨーロッパの各地の野外フィールドで、「レイヴ・ビー・イン(Rave Be-in)(ビー・イン(Be-in)とは、ヒッピーの集会を意味する言葉)」と題する、シークレット・レイヴ・パーティのシリーズをおこなう(〜1994年頃まで)。

 倉庫や廃墟のビルでのオールナイト・ギグをおこなったり、原始宗教の秘儀を思わせる呪術的なパフォーマンスをおこなうなど、アナーキーな活動をし、カルト的ファンを得た。

 レイヴではOHP投影機に、インクに油などを流しながら幻覚的な映像を背景に映すなどして、あたかも60年代末のサイケデリック・コンサートを彷彿とさせる演出の中でダンサーの田嶋エリサが(時には彼女のパートナーでもあった鳴海ナナをゲストに迎えて)熱狂的に踊り狂うなか、他の三人がオリジナル曲を交えつつ即興演奏を繰り広げるという、通常のテクノ/ハウス・バンドとはひと味もふた味も違うスリリングかつオリジナルなものであった。

 以後、1994年に至るまで、このシリーズはおこなわれるが、パーティは全てシークレット・レイヴとしておこなわれ、特定の人だけが会場や開催期日を知ることができた。「レイヴの一回性・祝祭性を純粋に保つ」という目的により、記録は残されず、写真撮影、録音などは一切禁止されていた。もし発見された場合は没収となった。
 このため、知られている限り、彼らのレイヴはいっさい記録に残っていない。

「イリーガル・レイヴ、それは、すでに商業化され形骸化して久しいロックという音楽が、いまから25年前にはまだ持っていたであろうスピリッツを、90年代というこの絶望的な時代にかろうじて再現しうる、唯一の手段だと僕らには思えたのだった」

「イリーガル・レイヴということにこだわりつづけることのできた僕らほど、幸せなグループはいなかった。もうあんなことは、誰も二度とできないだろう。
 もしもこんなふうに、絶望をさえ乗り越える手段が、もう十年早く、たとえば70年代後半のパンク・ロックの時代に出てきていたなら、シド・ヴィシャスだって死なずに済んだだろうに …… 」

(芙苑晶。手記「みずからを売らず」より)


●片や、この年、巨大なレイヴ・パーティとして、ヨーロッパでは「サンライズ・ミッドサマー・ナイツ・ドリーム(Sunrise Midsummer Nights Dream)」「ラヴ・パレード(Love Parade)」などがおこなわれる。「ファー・イースト」のメンバーは、時としてそういったパーティの関係者から出演を依頼されることもあった。だが彼らはそういったイヴェントには、よほど気に入った場合以外は、ほとんど参加しなかった。

 ファー・イーストが始めたレイヴは、ヨーロッパのアンダーグラウンド・シーンで行われていた「ウェアハウス・パーティ」とは、趣を異にするものであった。
  ファー・イーストは、「秘儀としてのレイヴ」をテーマに据え、また、場所も倉庫に限らず、工事中のビルや廃墟、田舎の廃校、閉業した中華飯店の店内といった場所を探し出し、観客もほとんど口コミによるシークレット・パーティというスタイルを創り出していった。

「最初から、私たちは有名になりたいとか、成功したいと思っていたわけじゃ全然なかった。むしろその逆だった。自分たちだけのためにやっていた。
 だいたい、1万人も来るパーティでやったって、私たちの良さがそれほど伝わるわけじゃないと、最初からわかっていた」

「だから、ハウスやテクノがメジャーな音楽になってきたのと並行して、あのころからレイヴ・パーティもだんだん商売になってきたけど、私たちは四人とも、そういうものに出るという方向にはほとんど興味がなかった。それに、秘密のレイヴだし、言えないようなヤバいことがいろいろあったりなんかするから面白いんだしね。この点で私たちは、そもそもその方法論ととスタイルにおいて、世界にも稀なワン・アンド・オンリーなバンドだという自信がある」
(田嶋エリサ)


●芙苑晶、オランダ(アムステルダム)に移住。以後、日本、ヨーロッパ、アメリカ等を往来しながらの活動。
 

●1990年

●この年から93年頃にかけて、バンドは日本以外に、イギリス、ドイツ、フランス、デンマーク、オランダ等のヨーロッパ、インド、ネパール等のアジア各地で、野外レイヴ・シリーズ「レイヴ・ビー・イン(Rave Be-in)パート2・宇宙巡礼レイヴ」をおこなったほか、各地の野外スペース、ガレージ、アンダーグラウンド系クラブ等に出演。いずれも盛況に終わる。

[*** 註: ライブ活動に関しては、海外での活動は、現在では記録が残っていないものも多いため、以下、日本国内での活動を中心に記述するものとする。]

●初のジャパン・ツアー。当時は日本においては「クラブ」はまだ数少なかったため、クラブだけではなくパンク/オルタナティブ系のライブハウスなどにも出演。スペースDJリョウの過激なMC、鉄骨を切断するパフォーマンス、芙苑晶がキーボードを叩き壊して燃やす(野外レイヴでは火炎瓶を投げる)、さらに市川カヲルのシャボン玉、その他等々、おもに日本のファン向けに考えられた過激な、ピカレスク的な演出が話題を呼んだ(彼らはヨーロッパではそういったパフォーマンスはあまりやらなかった)。

 しかしある意味で最も話題になったのは、田嶋エリサがステージにきわどい下着姿で登場、踊りながらヌードになったことだっただろう。一部パーティでは興奮した客たちも全裸もしくは半裸になって踊り始めるなど、レイヴ・ヒッピー的なパフォーマンスが繰り広げられた。

●岐阜県の森の中で、野外レイヴ。バンドメンバーとマネージャー、騒音条例違反に加え、猥褻行為で逮捕される。
  あとでメンバーたちはインタビューのさい「逮捕してほしかった。逮捕されてうれしかった」と口を揃えて告白。
 そんなファー・イースト・アシッド・ハウス・クワルテットのことを、当時のあるファンは、「かぎりなく狂気に近い純粋さ」と評した。

●日本の一部メディア(新聞、雑誌など)が、ファー・イースト・アシッド・ハウス・クワルテットのレイヴをスキャンダラスな形で採り上げる。

「私たちは、ああいうことは全部わざとやっていた。音楽やレイヴの文化のわかっていない、不勉強で無教養な日本のジャーナリストたちに、まかり間違ってインタビューなどされて、ヘタなことを勘違いして書かれるよりは、むしろ最初から醜聞だけを書かれるほうがずっといいと思ったから」
(田嶋エリサ)

●この年のツアーで、アンダーグラウンド・レイヴ・ムーブメントと相まって、ファー・イースト・アシッド・ハウス・クワルテットの名前が知る人ぞ知る存在として認知され始めた。
「アンダーグラウンド・レイヴのドアーズ」「テクノ・ドアーズ」などの異名あり。

●(時期不明だが、この頃か)回りにいた取り巻きの友人たちを集めてコミューンを形成。日本では長野県〜関西エリア、オランダはアムステルダム〜エダムという二カ所にコミューンの拠点を据え、現地のヒッピーたちと交流しながら音楽を作る日々が始まる。
そしてこのコミューンの名が「淫心」と名づけられ、ファー・イースト・アシッド・ハウス・クワルテットはバンドというよりはネオ・ヒッピーのコミューン・グループの複合体の一部として位置づけられた。

 ここにも彼らの特異性があった。たんなるバンドである以前にひとつのコミューンであるというスタイルは、まさに彼らが影響されていた1970年代初期のクラウトロックバンド、アモン・デュールやファウストなどを思わせるところがあった。

●7月、日本で初の公認ファンクラブが発足。会報を発行。

●12月、アンダーグラウンド・レイヴ機関誌「地底音楽」創刊。三珠アケミ主宰によるこの機関誌は、レイヴ、テクノ/ハウス、アンダーグラウンド・カルト、サイケデリック、ネオ・ヒッピー・カルチャー等々を中心に取り上げるもので、「ファー・イースト」はこの小さな機関誌の主役であり、彼らの第二ファンクラブといった趣もあった。
 同誌はのちに、「地下室」と名称を変更、廃刊の2002年まで、断続的に頻繁に登場し、メンバーへのインタビュー、対談、エッセイなどが掲載された。

「僕らのバンドが、極限的に自由なレイヴをやるために、ふつうの会場を一切使わず、わざわざ倉庫や廃墟などを使って秘密のパーティをやったように、プリント・メディアもまた、自分たちだけの極私的なものとして、ある特定の人たちだけにとどけられるようなスタイルのものがあってもいいと思った」

「雑誌とかTVとか、ああいうものはもう死んでいると思う。これからはもっとパーソナルでホットなメディアが有効だって気がする」
(芙苑晶)


●12月24日、次のアルバムに先行して、新曲『親殺し金属バット(Parents-Murderer Iron Bat)』シングル盤、リリース。
 本作は、ファー・イーストの歴史上唯一の公式なシングル盤であり、すでにシングルカット候補曲として既に1990年のツアーでも演奏されていたほか、放送局及びクラブ用にデモ盤シングル(クラブ・リミックス含む)が配布されていたものの、題名・サウンド・挿入されたセリフ等の諸要素が「青少年の非行ならびに犯罪行為を誘発する可能性がある反社会的なものである」として、イギリス・日本その他の国の放送局で放送禁止に指定される。日本のFM局では曲名はアナウンスせずに放送した局があったが、のちにキャンセルされている。
  アメリカのアンダーグラウンド局ではオン・エアされたが、NYのレコード店では、題名に問題があるとしてクレームがつけられ、一時は店頭に並べられたものの、のちに返品・回収されている。メンバーたちはこれに腹を立て、「アメリカではライブは絶対にやらない」とまで公言していた。
 なお、曲のタイトルは言うまでもなく、日本で実際に起きた少年の金属バットによる両親殺人事件がモティーフとなった異色作であり、市川カヲルが作曲した珍しい曲である。

  しかし日本においては、一部レコード店の店頭に登場したこともあるほか、各地のクラブでDJがとくにリミックス・ヴァージョンを回すこともしばしばあり、ファー・イーストの初期作品の単発の曲としては、最も知られている部類の曲の一つとなる。

 また、この曲はファー・イーストのメンバーたちのお気に入りであり、当時のファー・イーストのライブでは、オープニング・ナンバーとして1曲目に演奏されたり、クラブやライブハウスでは、リョウが本物の金属バットを持って登場し、パーカッション代わりにマネキンを殴りつけて滅茶苦茶に破壊する等のパフォーマンスを上演している。

 テクノ/ハウス系のアーティストがシングル盤をリリースすることは今でも珍しいし、この当時にあってはなおのことであった。そうした状況に鑑みても、この時点で契約していたレーベルからシングル盤がリリースされたことは、この時点ですでにファー・イーストがある程度の人気と評価を得ていたことを示してもいるが、しかし最初のシングル盤がこのような過激なものであったため、彼らは以後、二度とシングル盤(リョウが非公式リリースしたものを除き)をレーベルからリリースすることは出来なかった。
  ちなみに、レーベル(Nerve Nets Records)側は、この曲の一般的な反響があまりにもひどかったうえ、欧米では一般からのクレームまでついたため、発売以後まもなく、ファー・イーストのディスコグラフィからこのタイトルを削除している。
  こうして、彼らの「初のシングル」は、同時に最初で最後のシングル・カットとなり、発売と同時に「幻のレア・アイテム」と化してしまった(なお、翌年発売のセカンド・アルバムにはオリジナル・ミックスが収録されている)。
  と言うよりも、このような過激なタイトルとコンセプトの曲がシングル・カットされる事例は、ポピュラー音楽界においては稀有に異例のことであり、今となっては考えられないし、今後も恐らく二度とありえないと思われる。

 

●1991年

●2nd アルバム『心臓二金属ノ花咲ク(Metal Flowers Bloom On My Heart)』をリリース。前作の延長線上にありつつも、オルタナティブ、サイバーパンク的な要素が加味されたサウンドで、「ファー・イースト」の新しい方向性を予感させた。田嶋エリサのヌードをあしらったジャケットも話題となった。

 ファー・イーストのオリジナル・アルバム第2作目は、クラバーをはじめとする若者層やDJ等、純粋な音楽ファンやファー・イーストのファンには好評をもって迎えられたが、しかし前年末に先行発売されたシングル盤(『親殺し金属バット(Parents-Murderer Iron Bat)』)をめぐる問題があったこと、なおかつ、同曲のオリジナル・ミックスが収録されたニューアルバムであったこと等も影響して、FM局ではすでにファー・イーストはブラックリストに載せられていたとも言われ、以後、放送局ではほとんどオン・エアされないバンド、一部レコード店でも取り扱いが好まれないバンドとなる。

  また同じく、欧米においては、レビュー等で賛否両論が分かれ、イギリスにおいては、1stとは打って変わって酷評した評論家もあった。しかしよく読んでみると、その酷評レビューの内容はおもに、音楽そのものよりも、曲のタイトルやファー・イーストというバンドの「ハレンチさ」に対する揶揄が中心となっており、そのため、これらの酷評に対してメンバーは「地下室」誌上でコメントを求められたさい、異口同音に反論し、作曲者であった市川カヲルは「気取った変なオヤジたちに嫌われたら、私たちは幸せ」と答え、芙苑晶は「エセ・モラリストたちはいつの日も、タイトルだけを見て音楽は聴かず」、リョウは「音楽がわかってないインテリぶりっこの音楽オタクのたわごと」、田嶋エリサは「あなたがたのような卑しい職業の方に、私たちの芸術のいったい何がわかるのでしょうか」と答えている。

  しかしまた、ある点ではこうしたことが、ファー・イーストのカルト・アーティスト的評価にさらに火を点ける結果ともなった。本国・日本では意外にも好評レビューが多く、サブカルチャー系のライターやレビュアーをはじめとする文化人の中には、ファー・イーストというバンドそのものを絶賛した人たちもあった。そうした賛否両論が喧しい渦の中にあって、この時期を境に、「頭脳警察(1970年代の日本のロック・バンド)以来のカルト・バンドの出現」「日本のポピュラー音楽史上、真の意味で最も繊細かつ最も過激なグループ」「新しい世代の若者のサブカルチャー・リーダーとなりうる最有力候補」といったレビューが見られるようになる。

●岐阜県での野外レイヴ「火焰曼荼羅(Kaen-Mandala)」上演。へんぴな場所で、二日半にもわたるレイヴにもかかわらず、予想外に多くの人が集まり、好評を博す。(推定200〜250人前後。ほとんどが20代の客)
 のちのFC解放におけるアンケートで、ファンたちが「最も良かった Far East の野外レイヴ」として1位になった、伝説的なレイヴ・パーティだった。

 周囲にはまったく民家も何もない場所だったが、ただしこの時はPAのヴォリュームが過剰で、遠く離れた場所の一軒家(農家)から文句があった。ほかにも、警察に文句を言ってきた家が数軒あった。そのため、パーティの途中で地元警察から厳重注意があり、パーティが終わってから、メンバーは呼び出しを食らった。

●三度目のジャパン・ツアーではさらに大きな反響があり、バンドは一定のファン層を獲得。

「アナログシンセとか808のハットの音てあるやろ、みんなどう思てるか知らんけど、あれって絶対ヤバい音やで。揮発剤の匂いみたいなもんで、最初こんなもんええわけないって思う、でも毎日毎日ちょっとずつそれ嗅いでたら、しまいに病みつきになる。そやからハウス毎日聞いてる奴ってシンナー中毒の少年とおんなじやな」
(スペースDJリョウ)

 

●1992年

●レイヴ「無法的熱狂祭(Illegal Rave)」シリーズ上演。日本、オランダ、イギリス等。

●ダンサーの田嶋エリサと、キーボードの芙苑晶が結婚。ファー・イースト・アシッド・ハウス・クワルテットのある意味での頂点の時期だっただけに、バンドメンバー同士の結婚は、ファンにとってのホットなニュースとなった。(4年後、二人は離婚した)

●芙苑晶・田嶋エリサ夫妻、東京で、「サイケデリックの教祖」として知られる、ティモシー・リアリー(Timothy Leary)と会見。レイヴ・コミューン構想などについて話し合った。
 また、同じ頃、二人はチベット密教、ヒンドゥー哲学などを学び始める。

●前年あたりより始まった「ファー・イースト」のカルト・バンド的評価がさらに高まる。その影響で、日本のTV局から出演依頼などもあったが、彼らはすべてこれを断っている。

「私たちは、TVには絶対出ない。乞食の真似は、したくない」
(市川カヲル)

「私たちのファンは世界に500人。その500人は、歌謡曲しか聴かない5万人よりもずっと重い。だから、それで充分」
(田嶋エリサ)


●通算4回目の日本国内の全国ツアー・ライブ。国内のクラブやライブハウスに関して言うと、恐らくこの時期が、初期ファー・イーストの人気が最高潮に達した時期だったとも思われる。ハコによっては、ファー・イースト目当てと思われる客だけで満杯となり、ドアの外にまで溢れ出したハコもあった。

 しかし同時に、問題も起きていた。市川カヲルにドラッグが原因と思われる異常な行動が目立つようになったのである。以下にその概略を記すと、次のようである。
  市川カヲルはライブの本番になっても姿を現さなかったため、時間に間に合わず、ステージではリョウとエリの二人だけが先に出演し、間を持たせていた。そのすきに、芙苑晶とマネージャーの土井昌美の二人が探しに行くと、カヲルがトイレで失神しているのが発見された。
  またある時は、カヲルはライブの本番中に、ステージに突っ立ったままで、にやにや笑って観客に手を振り、何も演奏しなかった。それに気づいた芙苑晶がキーボードでカヲルのパートを弾いた。カヲルはフロアへ降りていき、観客と話をしたり、抱き合ったりしていた。
  さらに、このツアーの最後の頃、彼らが東京のクラブに出演したさい、ステージに現れた市川カヲルは、演奏をせず、観客の見ている前でシャツの袖をまくり、腕に注射をした。場内は騒然となったが、これが演出だと思った人も多かったという。

●そしてこの年の暮れ、バンドは商業化・通俗化してゆくクラブ・シーンに違和感を抱き、クラブ出演停止宣言を発表。彼らは「レイヴの精神を純粋に引き継いでいくため、すでにただの商売となったクラブに出演する意義を感じない」として、以後は、彼ら自身が自主的にレイヴ・パーティをたまに主宰する以外では、ほとんどライブ活動自体をやめてしまい、レコーディング・バンドとなる。
  しかし内実的には、市川カヲルの異常行動がライブの支障となっていたことを、のちにメンバーたちはインタビューで告白している。

 

●1993年

●3rd アルバム『無法的熱狂祭(Illegal Rave)』 発表。当時ようやく世界的に勃興の兆しを見せつつあった、ゴア/サイケデリック・トランスの先駆者としてのファー・イースト・アシッド・ハウス・クワルテットというバンドの面目躍如たるものがあり、特異な幻想的サウンドで高く評価された。海外の雑誌レビューでは「サイケデリック・トランスの先駆者」の評価あり。

●一方、この頃、すでに日本のクラブ・シーンはL. A. Style 「James Brown Is Dead」や T99「アナスターシャ」などに代表される、「ハードコア・テクノ」「デス・テクノ」といった傾向の攻撃的なサウンドへ移行しつつあり、彼らはそのバンド名だけで時代遅れと笑い物にされた部分もあった。
  実際、このあと彼らのとった方向も、時代の流れとは逆行するものだった。彼らは、ボディービート、ニュービートと呼ばれる過激な肉体的テクノハウスで、エクスタシーをキメて踊り狂うクラバーたちをよそ目に、あいかわらずそのルーツであったアシッドからの幻覚体験・覚醒体験に執着しながら、ますます内省的に独自のスタイルのトランス・ミュージックを追求するようになっていた。

「クラブはファッションになった。もうそれは俺らの場所じゃない」
(スペースDJリョウ)


●一方、アシッド・ハウスは短命なムーブメントであり、バンド名にある「アシッド・ハウス」は、この時点で、ある意味ですでに時代の潮流に合わなくなっていたし、彼らの音楽自体、元々「ハウス」よりは、「ゴア・トランス」や「サイケデリック・トランス」に近いものであった。

 そこで、バンド結成当初は、バンド名の「Far East Acid House Quartet 」の中の「Acid House」は、文字通り音楽スタイルとしての「アシッド・ハウス」の意味で用いられており、それ以上ではなかったが、この時期、芙苑晶・田嶋エリサの二人が、インタビューでその意味を拡大して再定義する。

「『Far East Acid House Quartet 』は、『Far East(極東の) Acid House (麻薬の巣窟に住む)Quartet (四人組のバンド)』という意味」(田嶋エリサ)

 また、「もう一つのバンド名」と言われてきた「LSD Liberation Front(LSD解放同盟)」の中の「LSD」に関しては、「Living, Seeing, Dieing(生きること、見ること、死ぬこと)」の意味に拡大して述べる。

「ただし、文字通り、幻覚剤のLSDと受け取ってもらってもかまわない。二つの意味があるようなもの」(芙苑晶

●日本の某大手レコード会社数社より「ファー・イースト」のアルバム・リリースの話が持ちかけられるが、「話が合わないし、興味もない」としてバンドはこれを蹴った。

 のち、NECアベニューとのみ話が継続、断続的にミーティングが続けられるが、同社は翌年倒産したためこの話は実現せず。

●10月、新婚まもない芙苑晶・田嶋エリサ夫妻、麻薬取締法違反で逮捕される。二人の京都の別宅(本宅はアムステルダムにあった)で行われていたホーム・パーティで、彼ら夫妻をはじめ、現場にいた彼らの友人である、モデル、カメラマン、ジャーナリスト、ミュージシャン、DJ、ダンサー、クラブ・プロデューサーなど合計9名が一度に検挙され、パーティに持ち込まれていた物の他に、自宅の押入にあったコカイン、クラック、LSDなどの薬物数点が押収された。

 

●1994年

●「地下室」が「ファー・イースト・アシッド・ハウス・クワルテット」特集号を組み、ここに彼らの初の個別ロング・インタビューが掲載されたが、このインタビュー上で彼ら四人は申し合わせたように、ドラッグ体験(とくにLSD、DMT、メスカリン等々によるサイケデリック・ドラッグス)を告白、大きな反響があった。

●春頃、市川カヲル、万引きで逮捕され、留置場に入れられる(ただしこれは、公式ニュースとしては発表されず)。

●7月、沖縄県での初のレイヴ。合計3箇所で連続公演。 野外のパーティが二箇所と、もう一つは、なんと小さな離島の、某小学校の体育館を借りておこなわれたもの。後者はレイヴではなく、一般市民も参加できるようなスタイルの「コンサート」だった。 このような形式での「コンサート」は、ファー・イーストの歴史上この時のみである。 しかしいずれも、初の現地公演ながら、観客も満員御礼、最高に盛り上がった熱狂的レイヴの一つとしてファンの記憶に残る名演となった。
 
 また、ファー・イーストのメンバーたちは沖縄と沖縄のファンたちをすっかり気に入ってしまい、「来年もう一度ツアーをやりたい」と話していた(しかし市川カヲルの死により実現せず)。彼らは、予定を延ばして長期滞在。プライベートで石垣島、与那国島その他の離島を回り、休暇を過ごす。

 また、この休暇の間、いずれかの離島(石垣島か)の大自然に囲まれた無人地域で「無人レイヴ」と題したライブ・レコーディングがおこなわれる。沖縄滞在中に作曲した曲が即興的に演奏・録音されたらしいが、その音源は現在に至るまで発表されていない。

  また、これがきっかけで、芙苑晶・田嶋エリサの二人は、沖縄の離島のどこかに住むつもりで家を探した形跡があるが、実現せず。
  のちのインタビューによれば、この当時、彼ら二人は文明社会そのものを捨てようとしていた形跡があり、ニューギニアやネパールあたりも候補地に挙げられていた(しかし二人は96年に離婚したため、実現しなかった)。

●8月、野外レイヴ・パーティ「Love and Rave(ラヴ・アンド・レイヴ)」、岐阜県の山中で二日間にわたり開催される。後半は雨天にもかかわらず、延べ300-400人近いファン(推定)が集まった。
 当時は誰も予想しなかったが、結果的にこれがファー・イースト・アシッド・ハウス・クワルテットの最後の野外レイヴとなった。
 来ていた客の中には、DJアゲハと香港リル(当時まだ中学生。のちに、トランス・レイヴ・ドーターズとなる)もいた。

●レイヴ・コミューン「灰と太陽の共和国」解散。芙苑晶・田嶋エリサ、インタビューに答える。
二人は、ファー・イースト・アシッド・ハウス・クワルテットとして、「バーニング・マン」(アメリカ・ネヴァダ州でおこなわれる巨大イベント)に出演する計画を持っていると発言したが、結局これは実現しなかった。

「大きな会場でのレイヴはつまんないって、ずっと言ってきたわけだけど、最近またいろいろ話し合って、バーニング・マンなんかいいんじゃないかって。あれは大きなレイヴのイベントの中では、そのスピリッツにおいて、私たちが考えるレイヴなりパーティの形態にかなり近いものがあるしね」
(田嶋エリサ)


●この頃より、メンバー各自のソロ活動をはじめとする、バンド活動を離れた行動が目立つようになる。以下にそれを列挙する。

メンバーの中では、芙苑晶はすでにソロ・アーティストとして、ファー・イースト・デビュー当時の1988年以降、『燐光(Phosphorescence)』、『木霊(Echoes)』、『荒廃(Ruins)』等のソロ・アルバム数枚をすでに発表していたが、これに感化され、リョウ(スペースDJリョウ)はテクノ主体のソロ・アルバムを自宅でレコーディングし始め、95年のリリース予定を告知(が、そのままオクラ入りとなって、現在に至るまで未発表)。

○市川カヲルはフリー・ミュージックのバンド「全日本家出人協会」でライブ活動。京大西部講堂や関西・名古屋方面のライブハウス等に出演。また、同バンドのアルバム制作を始め、自主制作盤としてカセット・アルバムをリリース(ファンの反響や売れた枚数等は不明)。なお、このバンドには、他のメンバーは関わっていない。

芙苑晶以外のメンバーで、ソロ活動がそれなりに成功し、反響があったと見られるのは田嶋エリサのみである。

○7-8月頃、田嶋エリサ、サイケデリック・ロック/トランス・バンド「田嶋エリサと荒野の無理心中」のライブを挙行。ライブハウスに出演。エリはダンスとボーカルを担当。バンドメンバーは、芙苑晶(キーボード)、マダム呪々(ギター)、三珠アケミ(ドラムス)、上埜邦彦(ベース)。
本人曰く「お遊びで始めたバンド」だったが、意外に好評で、ライブにはファー・イースト・ファンと思われる人々が駆けつける。

○ 「田嶋エリサと荒野の無理心中」、アルバムをレコーディング。500枚の限定プレスでNerve Nets RecordsよりLP盤をリリース。完売。発売されたのはこの1枚のみ。サイケデリック・ロック・ファンに好評を博し、内外の雑誌でのレビュー等も見られ、意外な反響があった。

●また、ファー・イースト・アシッド・ハウス・クワルテットの野外レイヴに出演していたレイヴ・バンドで、ファー・イーストの弟分とも見なされていた「野火」の1stアルバムが、芙苑晶・田嶋エリサの二人のプロデュースによる芙苑晶の自宅スタジオでレコーディングされるが、未完成のままオクラ入りとなり、現在まで未発表。なお、「野火」のメンバーは4名とも、この時期を境に、全員消息不明のまま現在に至る。

●(時期不明だが9月末頃か?)市川カヲル、精神病院に入院。地元・大阪のファー・イースト・ファンの数名がカヲルを街で目撃している。放浪癖、徘徊症の噂もあった。年末に退院。

●11月、スペースDJリョウ、覚醒剤所持容疑で逮捕される。

「今回のリョウの逮捕によって、ファー・イーストのメンバーは四人とも全員、晴れて前科者となったわけで、バンド・リーダーとしては、この上なく光栄に思います」
(芙苑晶。FC会報に発表された、リョウの逮捕のニュースに関するコメント)


●また、このころすでにバンドは解体していたともいわれる。『肺魚の夢』レコーディング中に、メンバー同士の間にいさかいが起き、芙苑晶が一度、脱退したのもこの年である。そのほか、市川カヲルのドラッグ耽溺をはじめとするさまざまな問題が、彼らの活動を困難にしていたらしい。

 

●1995年

●6月(上旬頃)、市川カヲル死去。睡眠薬の過剰摂取による事故死と発表される。享年27才。

●7月12日、ファー・イースト・アシッド・ハウス・クワルテット、通算4枚目のアルバム『肺魚の夢(Lung Fish Dreams)』発表。

 このアルバムを境に、ファー・イーストは方向性を大転換している。これはレコーディング・バンドとなった彼らが、音楽性そのものを追求するという方向で、緻密な曲構成や実験的なレコーディング、音楽ジャンルのクロスオーバー実験等、より芸術的な試みに傾き始めたのである。
 音楽的にはこのアルバムを境目に変化が見られるようになり、以降、ボコーダー・フィーチャーのメロディアスなサイケデリック・トランス的な楽曲や、今となっては IDM の先駆とも考えられるような実験的・前衛的な曲までをその作品群に含むことになる。

 曲のスタイルも多彩になっており、当時最先端のインテリジェント・テクノ(IDM)、ジャングル、ドラムンベース、アンビエント(チルアウト)、ボコーダー・フィーチャーの幻想的トランス等々、変化とヴァラエティに富みながら、全体的には頽廃的な香りが濃厚に漂う幻覚的なサウンドという、「新しいファー・イースト」の姿を打ち出していた。

 音楽性においてもアルバム構成においても、それまでになかった新しいスタイルに対しては、賛否両論が真っ二つに分かれた。ファンクラブ会報において、ファンの間での賛否両論が闘わされる。両派の代表的な意見をまとめると、およそ次のようになると思われる。

 反対派のファンは、ファー・イースト初期のゴア/サイケデリック・トランス的なトランシーな音楽を求めていたようで、「今のファー・イーストは『考えすぎ』だ。カヲルの堕落で、方向性を見失ったバンドとなってしまったことを、彼らみずから告白しているような作品としか思えない」といった厳しい評価が見られたが、一方、賛成派のファンも多かった。
それまでにないファー・イーストの新境地を開拓した傑作」という絶賛の言葉にはじまり、「ファー・イーストらしくなくてもいい。名曲揃いだし、それがまたかえって新鮮」「音楽的な実験性の極みであり、アルバムとして最高に完成度が高い」 (ファンクラブ会報より)などのレビューがあった。

 しかしいずれにせよこの時点では、彼らはほとんどそれを宣伝しなかったのと、ライブ活動をやっていなかったこと、また、レコーディング途中での市川カヲルの急死に衝撃を受けた他のメンバーたちはやる気をなくしていたとも見られ、初期と比べると、ファー・イーストのファンは激減していたと言われ、初回プレスのみで廃盤となる。

●ファンや世間一般の間においては、市川カヲルの急死、他のメンバーたちのドラッグによる逮捕といった「事件」、往年の野外レイヴでの過激なライブ・アクト等々のイメージから、「ドラッグ・バンド」「悪魔崇拝のバンド」といったレッテルも貼られた反面、ますますカルト的なファンたちを獲得してゆく。また、この頃から、ファー・イーストの野外レイヴが伝説化し、新しい世代のファンが急増する。

●田嶋エリサ、初のソロ・アルバム『神経』(Nerves)発表。アンビエント風のアルバムで、彼女のシタールやパーカッションなどの即興演奏が収録されている。芙苑晶プロデュース作品。300部限定で、すぐに完売。

●「ファー・イースト」解散の噂濃厚に。ファンクラブ会報に「『肺魚の夢』はファー・イーストのラスト・アルバムか?」の見出し。

 

 

●1996年

●市川カヲルを除いたファー・イースト・アシッド・ハウス・クワルテットのメンバー3人(田嶋エリサ、スペースDJリョウ、芙苑晶)は、日本の野外の巨大レイヴ・イヴェント「レインボー2000」への出演をはじめとするライブを予定し、シーンへの復帰を計画している旨が、この年のファンクラブ会報に発表される。デモテープを送るなどして、「レインボー・オフィス」にコンタクトした形跡があった。
 が、「レインボー」への出演は直前になってキャンセルされ、果たせずに終わった。田嶋エリサの体調不良が理由であった。

●「カヲル(市川カヲル)のあとがまとして、マダム呪々を入れた4人編成の新しいトランス・バンドとして再スタートするかもしれない」とスペースDJリョウはファンクラブ会報で発言したが、これも実現せず。

●4月、アンダーグラウンド・レイヴ・カルチャー機関誌「地下室」のロング・インタビューで、田嶋エリサ、数年間にわたり麻薬中毒に陥っていたことを告白。今度のニューヨーク行きはリハビリを兼ねたもので、しばらく施設に入っていたこと、現在もなお社会復帰すべく努力していることを告白。

「ここ数年、日本の若い子の間でドラッグが流行っていて、そのなかにはどうかするとバッド・トリップがカッコイイみたいな風潮すらあるわけだけど、そうやってみんながファッション感覚や興味本位で麻薬をやり、私たちのような愚かな経験をしないためにも、私は自分が味わった悲惨な経験をここに告白しようと思います。
 これは、私の意見を誰かに押しつけたいと思っているという意味じゃないんだ。どうするかは、みんながそれぞれ判断してほしい」
(田嶋エリサ)


 また、インタビュー中で彼女は、市川カヲルの死に関しても、直接的死因については言及しなかったものの、ドラッグからの影響があったことを認め、自分は今後はダンサーとしてだけではなく、芸術活動を通して世界を救う仕事をする人になりたい、と発表。

 これに対して、予想外の爆発的な反響があり、おもに十代・二十代のファンからさまざまな感想・意見・批評・励ましの言葉・反対意見などをつらねた手紙が連日事務所に殺到。同誌始まって以来の異常な反響となった。田嶋エリサはこのあと、それらの手紙の主の一人一人にあてて、わざわざ返事を書いた。

●10月、芙苑晶・田嶋エリサ夫妻離婚。

●この年の10月頃(?推定)、芙苑晶がグループを脱退。しかしリョウがこれに賛同せず、事実は公表されず。リョウは芙苑晶の代わりに、マダム呪々や他のミュージシャンを入れ、バンドを継続させようとした形跡がある。

 

 

●1997年

●1月30日、田嶋エリサ死去。自宅マンションの浴室で全裸で発見される。死因は心不全とだけ発表され、間接的な原因については公表されなかったものの、その1年前に同バンドメンバーの市川カヲルがやはりドラッグに関係した事故で死亡していたことや、晩年(といってもまだ若いが)麻薬中毒に陥っていたことを自ら告白していたため、ヘロインの過剰摂取による心臓発作ではないかという説があった。享年30才。

●二人のメンバーを相継いで失ったバンドは、自然消滅の形で解散が決定。

●9月、大阪の某野外スペースでおこなわれた「バイバイ・イリーガル・レイヴ/ファー・イースト・アシッド・ハウス・クワルテット・サヨナラ・ナイト」(これもイリーガル・レイヴだったため、場所は非公開だった)には、スペースDJリョウ、ヒプノティック・ツイン( Hypnotic Twin : David Laurenz + DJ Third Eye )、さらに、 Far East Acid House Quartet のフォロワーであったトランス・レイヴ・ドーターズなどが出演、皮肉なことにこれが彼女たちのステージ・デビューとなった(芙苑晶は欠席)。

 予定をはるかに上回り、300人近いファンが集まった。プロジェクションには秘蔵の未公開映像であった、田嶋エリサのダンスしているビデオなどが大写しにされ、彼女のファンの少女たちの泣き叫ぶ姿も見られた。

●この時、ライブに来た観客に無料で、特別盤シングル+リミックスCD『電極世界(Electrode Land)』が配布された。250枚のみの限定販売で、最後のライブに来た人だけが買える仕組みになっていた。

●9月29日、ファー・イースト・アシッド・ハウス・クワルテット解散。

●解散まもない10月21日、5th『太陽黒点(Sunspot)』発表。このアルバムはトータル300部という完全限定盤で、基本的に非売品に近い性格のものであり、9月のサヨナラ・ライブに来た人、ファンクラブの会員で申し込んだ人だけが先着順に買えるようになっていたほかは、関係者のみに配布された特別盤だった。 そのためにこれが「ファー・イースト」最後の作品と思っている人がいる(当時も一時そのように言われた)が、これは誤り。翌年、未完成だったお蔵入りアルバムが発表されることになるからだ。

●(時期不明・10月末頃か?)、神奈川県で女子高生が飛び降り自殺。クラバーであり、ファー・イースト・アシッド・ハウス・クワルテット、とくに田嶋エリサの熱狂的ファンで、後追い自殺かの説もあった。

 

 

 

●1998年

●97年末頃から、芙苑晶はニューヨークのスタジオに何度か渡り、ブルックリンの Psychedelic Plants Research Laboratory Studioで、ソロ・アルバム『宇宙論(Cosmology)』の仕上げと並行して、ファー・イースト・アシッド・ハウス・クワルテット最後のアルバムとなる『電気羽虫』の制作を 続けていた。

 元々、このアルバムのレコーディングは、実はかなり古くから続けられており、1993年頃からすでに曲や構想はある程度できていたが、メンバーたちがこのアルバムと並行してビデオ映画を制作しており、その映画の完成とともにアルバムをリリースするというプラン(いわばビートルズの「マジカル・ミステリー・ツアー」にも似た発想の)を持っていたが、さまざまな理由から「オクラ入り」となっていた作品だった。

 95年から97年にかけて、市川カヲル、田嶋エリサの二人が死亡し、さらにエリの死後、残る二人のスペースDJリョウと芙苑晶が対立。最後には、アルバム制作に最も熱心だったリョウまでもがレコーディングを放棄してしまったため、芙苑晶は半分ほどできかけていたアルバムを完成させるため98年の1月、ニューヨークのスタジオへ戻り、元々幻覚植物研究所(Psychedelic Plants Research Laboratory)の新作のために用意されていた未発表曲を、この作品に盛り込んで、翌98年の夏、『電気羽虫』を完成させた。

 このとき、彼は気づいていなかったが、偶然にもレコーディングが終わったのは、バンド結成からちょうど十年が経った7月20日だった。

●8月29日、6thアルバム(ラストアルバム)『電気羽虫(Electric Locust)』発表。近未来的世界をテーマとした幻想的テクノ組曲とも言えるコンセプト・アルバム仕立ての作品で、事実上、ファー・イースト・アシッド・ハウス・クワルテット最後のアルバムとなった。

 発表当時、5th 『太陽黒点』が最後のアルバムとばかり思いこんでいたファンは驚いた。公のライブ活動をやめて以降(アルバムで言うと『肺魚の夢』以降)、音楽的にどんどん変化していくファー・イーストだったが、このアルバムではさらに変化が見られ、「1stの頃とはまるで別のバンドのようだ」と評したファンもいた。

 発表された6枚のアルバムを年代順に追って聴いていくと、レコーディング・バンドとなって以後、そして後期になればなるほど、ファー・イーストのメンバーたちは音楽性と完成度を追求していたことがわかる。ストレートで荒々しいサイケデリック・トランス的な楽曲が中心だった初期のアルバムから、音楽性の幅を拡大し、実験的・前衛的な曲や、ボコーダー・フィーチャーのハード・トランスの先取りとも言えそうな作品まで、後期には多彩な音楽的試みが見られた。
  『肺魚の夢』発表当時湧き起こった、音楽性の変化に対する賛否両論は、この解散当時になると、次第に一定の評価が見られるようにもなっていた。『電気羽虫』から、のちに、「Mrs. Cyborg」のようなクラブ・ヒットが出たことが、それに輪をかけている。

  バンド解散後の1999年、ファンクラブ会報において、
ファー・イーストの残した6枚のアルバムは、今聴くと変化に富んでいて、いろいろな曲があるが、どれもファー・イーストの世界なんだと思う。その世界の広さ・深さに、僕らは今頃になってやっと気づいたのではないだろうか・・・?
  (ファンクラブ会報より)
  と語った1ファンの言葉が、それを象徴しているだろう。
 いずれにせよ、皮肉なことに、ファー・イーストは解散して以後やっと、彼らの純粋な音楽性を評価されるバンドとなったのである。

 一方、残された二人のメンバーの間には、この当時、険悪な状態が続いていた。 リョウ(スペースDJリョウ)は、このアルバムがされた当時、アルバムの最終ミックスを自分に相談せずに芙苑晶が独断で仕上げてしまったとして彼を責め、激怒してアキ(芙苑晶)へ絶交を言い渡す。
  しかしこれは彼の早合点のせいもあった。カヲル・エリの死後、アキは、いつまでも仕上がらないまま放置されていたこのアルバムを自分なりに仕上げてリリースしていいか確認をとっていたが、当時喧嘩していたリョウは「勝手にしろ」と答え、芙苑晶は「わかった」と答えて、その通りにしただけだったのである。

二人は、この五年後の2003年に和解。ふたたび良き友人同士に戻ったものの、二人のメンバーの無惨な死、そして残る二人のメンバーの絶交と、かつてあれほど仲の良かった四人組が、このような形で幕を閉じたというのは、まさに救いのない悲劇としか言いようがない。

 

 

 

●エピローグ〜現在

●こうして彼らは当時、世間一般の話題にされることなく消えていった。むしろ彼らがそれを望んだのかもしれなかった。彼らは最後までアンダーグラウンドに徹したバンドであった。

●バンドが解散したとき、残った二人のメンバーへのインタビューがおこなわれた。その中で、二人はバンドについて、こう語った。

「僕らは長く続けすぎたんだ。名前を見てもわかるとおり、こんなのはある時代にしかない、はかないものだよ。
 あのバンドは、まあ2年持てばいいほうだと僕は思っていた。それが断続的とはいえ、あのアンダーグラウンドなバンドが、結局通算10年近くも続いたんだから。1990年に解散すべきだったね」
(芙苑晶)

「ノーコメント」
(スペースDJリョウ)


●最後のアルバム『電気羽虫』の発表後まもなく、リョウはロンドンへ渡った。しばらく DJ 活動を続けていたが、ほどなく引退し、あっさり音楽界から姿を消した。

●このときおそらく、かつての「ファー・イースト」ファンたち自身も、すでに若くはなかった。彼らとともに成長した同世代あるいは近い世代のファンたちは、まもなく二〇代も後半か、あるいはすでに三〇代になっていた。

クラブはますます栄え、ハウスやテクノはポピュラー音楽の1ジャンルとして認知されつつあったが、もはや、忘れ去られたバンド「ファー・イースト・アシッド・ハウス・クワルテット」のことを語る人はほとんどいなかった。

彼ら自身が活動中によく言っていたように、「イリーガル・レイヴに特化したバンド」であったがゆえに、彼らのことを知る人は、この日本にも、一般のポピュラー音楽のアーティストのファンと比べれば、ごく限られた少数の熱心なファンたちだけであった。しかしその熱狂ぶりは、他のポピュラー音楽のアーティストの比ではなかった、と語る人も少なくない。

「ファー・イーストほどアンダーグラウンドの世界に徹して活動したバンドもなかったと思うけど、ファー・イーストほど熱狂的なファンを持ったバンドも世に稀だったんじゃないかと思う。エリが死んだ時、後追い自殺した女の子がいたという話まであったけど、その気持ちが分かるという感じ・・・。少なくとも、あの熱狂と興奮っていうのが、もう二度と戻って来ないと思うと、やりきれないほど淋しい。
 (中略)
 だから、ひどい言い方かもしれないけど、たとえカヲルがあのまま半狂乱の状態でいようとも、たとえエリの体がボロボロになっても、リョウが音楽業界や体制派の大人たちを憎み続けていようとも、アキが昼夜無しの多忙さで睡眠薬飲み続けてでも、ファー・イーストに活動を続けて欲しかった――。
  ファー・イーストが解散した時、そう思ったのは、私だけじゃなかったと思う。 」

(土井昌美、元・ファー・イースト・アシッド・ハウス・クワルテット・マネージャー)


「Far Eastは、僕らの世代にとって、真実と希望の代名詞だった。
 いつか、アキ(芙苑晶)が言ったように、
 『この国の大人たちは、とても器用だった。
  彼らは何でも商品にしてきた。
  真実と希望以外は、すべて』
 --そう、その通りだった。
 そしてその、唯一の例外が、Far Eastだったのだ。

  その真実と希望が消え去った今、明日からどう生きればいいのか、
  分からずに立ちつくしている僕が、ここにいる。 」
(ADACHI、ファンクラブ会報より


歳月が流れた。

●21世紀を迎えて数年が過ぎた。ごく最近になってまた「ファー・イースト」のことが話題にのぼるようになった。それはアシッド・ハウスというものが知名度を得始めたことや(とくに日本では「アシッド・ハウス」という題の映画がヒットした影響などもあるだろうか??)、また、「ファー・イースト」最後の現役メンバーといわれる芙苑晶がテクノ系ソロ・アーティストとして世界的に知られ始めた影響があるだろう。

●ある意味では彼らは、早すぎたのだ。今ではサイケデリック・ロックとハウスのミッシング・リンクとも、サイケデリック・トランスや野外レイヴの先駆者とも、あるいはその独特のレイヴ・スタイルから「レイヴのドアーズ/テクノ・ドアーズ」、さらにあるいはそのコミューン・スタイルから「日本のデジタル・アモン・デュール」などとも評された彼らは、80年代後期からすでに異色の存在だった。

 いまやコマーシャルな音楽となったハウスやトランスの先駆者であった彼らがしかし、商業化してゆくハウスやクラブ・シーンに背を向けることでその活動後期のスタイルを人に姿を見せない隠者、さらに解散後はケミカル世代のカリスマとしてそのイメージを決定づける結果になったということは、なんという皮肉であろうか。

●現在(2005年)、残る二人のメンバーのうち、スペースDJリョウはイギリスの郊外に移住、すでに引退し、育児を中心とする平和な生活を送っていると語っており、芙苑晶だけがソロ・アーティストとしてアメリカを中心に活動を続け、おもにシンセサイザーを使ったソロ・アルバムを出すなど、精力的な活動を続けている。 

●いまも日本各地に、そして世界に散らばる 「ファー・イースト」ファンたちは、時代の谷間に消えていった、この不世出のカルト・バンドのことを、まだ記憶しているに違いない。


(三珠アケミ・土井昌美・musashi=編)

 
 
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