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メンバー > バイオグラフィ(ストーリー) |
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ファー・イースト・アシッド・ハウス・クワルテット
( Far East Acid House Quartet )
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| ▲ 「ファー・イースト」の初期のリーダーであり「音楽面のリーダー」とも呼ばれた芙苑晶。写真は、プロモ・ビデオより、レコーディング中、キーボードを演奏する芙苑晶のショット(1992年頃か?)。 |
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● 【芙苑晶】 AQi Fzono
【トランス音楽の予言者】 |
(1969.11.20〜)
電子音楽、トランス・ミュージックなどで国際的に知られるアーティスト、作曲家。元「淫心」「ファー・イースト・アシッド・ハウス・クワルテット」メンバー(キーボード、シンセサイザー、テルミン)、バンド・リーダー。バンド在籍時の通称は「アキ」。
芙苑晶は、ファー・イースト・アシッド・ハウス・クワルテットのメンバーの中では最もエキセントリックなキャラクターだろう。元々クラシック畑出身で、十代前半で作曲家デビューした天才少年として、その筋でもすでにある程度知られた人だったが、のちにテクノへ転向して以後は、クラシックの作曲テクニックと最先端の電子音楽やダンス・ミュージックを変幻自在に結びつけ、革新的な音楽を創り出してきた彼は、「ファー・イースト」においては作曲家兼アレンジャー、キーボード奏者であり、ステージでは最も目立たない存在だったが、ある意味でこのバンドを音楽面で支えていた最強のクリエイターでもあった。 |
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| ●「ファー・イーストの生き残り」 - 唯一の現役アーティスト |
現在、海外ではAQi Fzono の名でも知られる芙苑晶は、「ファー・イースト」の元メンバーの四人の中で、バンド在籍当時から唯一ソロ・アルバムをコンスタントに発表していたアーティストであり、のちに最も成功し、シンセサイザーという楽器の大家として、国際的に知られるようになった人である。
幻想的なエレクトロニック・ミュージックのソロ・アルバム・シリーズにおける、シンセサイザー・シンフォニー、アシッド・ミュージック、シンフォニック・テクノ etc. といった芙苑晶自身の発明による独自な音楽手法・新ジャンルなどに至っては、すでに海外のウェブ百科事典などにもその項目が載っているほどで、そういったいくつかの輝かしい功績が、国境を越えて評価され始め、日本国内でもカリスマ的人気を持っている。また、今で言う「トランス」に相当する音楽(当時彼はそれをアシッド・テクノと呼んでいた)を早くから手がけてきたアーティストであり、近年では、トランス音楽のパイオニア、ないしは予言者としての評価も出てきている。
すくなくとも、知名度においては、他のメンバーたちとはおよそ比べ物にならない。現在ではむしろ、芙苑晶がこのバンドのメンバーだったことを聞いて驚く人が多いくらいだ。
また、当然ながら、バンド解散後、元・メンバー四人の中では、彼だけが唯一現役で活動を続けているアーティストとなった。そのため、ファンの間では「ファー・イーストの生き残り」などとも呼ばれることがある。
むしろ今となっては、とくに、音楽の創作という面に限って言えば、芙苑晶は「ファー・イースト」のメンバー中、最重要人物と見る意見が多いようだ。「ファー・イースト」のアルバムに書いた曲は、メンバー中飛びぬけて多いうえ、
「ファー・イースト」の代表曲と見なされているいくつかの人気ナンバーも、芙苑晶が手がけた曲がほとんどだ。
とくに、あまり明確なメロディのない曲が多い「ファー・イースト」作品の中にあって、メロディアスなトランスに近い曲は、芙苑晶のお得意であった。また、他のメンバーの書いた曲も、ほとんどの曲を芙苑晶がアレンジを手がけることが多かった。
しかし、本来レイヴ・バンドとして始まった「ファー・イースト」は、バンド活動当時、もっぱら彼らの特異なライヴや、エキセントリックな面が話題にのぼることが多かった。しかもキーボードというライヴでは地味な楽器、作曲やアレンジ担当といった、「縁の下の力持ち」的な役割であった彼は、他の三人と比べれば、ライヴでは一番目立たない存在であった。現在とまるで正反対である。
ファー・イースト・アシッド・ハウス・クワルテットのバンド・リーダーをつとめた彼は、一見目立たない存在にも見えたが、バンド内きってのアイディアマンでもあり、思想面でのリーダーでもあった。「ファー・イースト」 = 「レイヴ」とか、「ネオ・ヒッピー」といったイメージがいつの間にか出来上がったのは、芙苑晶のアイディアや発言などに負うところが大きい。
ライヴよりは
むしろ、そういった創作面や、思想的な活動などで、「ファー・イースト」を音楽にとどまらないグループとしてイメージづけた功績のほうが大きいだろう。ある意味、ファー・イースト・アシッド・ハウス・クワルテットというバンドの本質的な部分を形作った人であった。
1969年11月20日、京都生まれ。本名は同じだが読み方が違い、芙苑晶(ふぞの・あきら)。アキというのは、小さい頃からの呼び名でもあったが、アキ・フゾノ(AQi Fzono)となったのは、海外でデビューしたため、現地での通称がそのまま流用されたためだ。
京都に生まれたのは母が里帰りしていたためで、当時彼の一家は新宿に住んでおり、生後まもなく母は二人の子供を連れて東京へ戻る。実際には彼は関東の育ちで、おもに横浜で育っている。きょうだいは上に姉が二人。三人姉弟の末っ子であった。
幼少期に一家で短期間、アメリカに移ったことがあるが、この時期に両親が離婚、父が家を出ていき、母子家庭となる。帰国後、母は友人と、横須賀の米軍基地の近くで喫茶店の経営を始める。この時晶は五才だった。彼はのちに、父の顔をほとんど覚えていないと語っている。
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| ●「早熟の天才少年」 - はじめにクラシックありき |
芙苑晶がピアノを習い始めたのは、ほんの偶然である。5才の頃の彼は、なまじ子供の頃を外国で(短期間とはいえ)過ごしたために、人見知りが極端に激しく、内気で、近所の子供としゃべることさえ出来なかった。
家ではふつうにしゃべるのに、一歩外へ出ると口も利かない息子を心配した母親が、「何かさせないと自閉症になるかもしれない」と、ピアノを教えたところ、最初は下手だったが、ある時期を過ぎると急に上達したらしい。性格も、だんだんノーマルになり、明るくなった。
しかし、この当時まだ本人は、「それほど音楽は好きではなかった」のだという。むしろ自分は何かを作ること、無から有を生み出すようなことが関心があったと芙苑晶はのちに語っている。
6才頃から独学で作曲を始め、著名な作曲家の黛敏郎氏に才能を見出され、クラシックの英才教育を受けた彼は、十才の頃には、早くもプロの作曲家目指して音楽の勉強を始めていた。 14才の時、最初のオーケストラ曲『エアリアル・シンフォニー(Aerial Symphony)』を完成させ、十代前半で作曲家としてデビュー。一部ですでに天才少年の評価も取っていた。最初は、クラシック作曲家志望だったのだ。
「その頃僕は、クラシック以外は音楽だと思ってなかった。家が喫茶店だったから、ロックやポップスも聴いてたけど、自分が作る音楽はまた別だと思ってたんだよね。視野が狭かったんだ」
当時の彼が崇拝したのは、ベートーヴェンとワグナー。ベートーヴェンのシンフォニーとワグナーのオペラ、この二つが、作曲家としての出発点になったと語っている。
「当時、一番惚れてたのはワグナーね。小遣い貯めて、『トリスタンとイゾルデ』の4枚組のLP買ってね、擦り切れるぐらい毎日家で聴いてた」
(芙苑晶。インタビューより)
シンセサイザーに興味を持ったのも早かった。十才の時、スタンリー・キューブリック監督のSF映画『時計じかけのオレンジ』のサウンドトラックを買い求め、シンセサイザーという楽器を初めて知ったのもこのころだった。
芙苑晶がいかに早熟なタイプであったかを示すエピソードは、他にもいくつかある。美術や文学にも関心を持っていた彼は、中学時代、坂崎乙郎氏(美術評論家)の著書の中のウィリアム・ブレイク論を読んで感動し、坂崎教授に手紙を書いた。以後、坂崎氏が亡くなるまで、芸術論を交わすような文通がしばらくあったという。
驚くべき早熟さで、これらを見てもわかるように、「ファー・イースト」のメンバーの中では最も芸術的天分に恵まれていた人である。ポピュラー音楽界ではもちろんのこと、クラシック音楽の世界で見ても、これほど早熟型の人は珍しい。
しかし、少年時代の芙苑晶は、環境的にはけっして恵まれていたとは言えない。おそらく、四人のメンバーの中では最も貧しい家庭環境に育ったのは彼だったろう。元々母子家庭に育ち、子供の頃などは、贅沢もほとんどさせてもらえなかった。
また、不幸な出来事にもいくつか遭遇している。彼の小学校の終わり頃、下の姉が病気のため、14才で夭逝している。多忙な母とはすれ違いも多く、中学・高校時代は、当時大学生だった上の姉とほとんど二人暮らしをしていた。
しかし反面、比較的自由な環境に育ったため、こうした逆境にもめげず、早くも学生時代から音楽活動を続けることが可能であった。皮肉なもので、裕福な家庭を憎んで自堕落な少女時代を過ごしていたと言う市川カヲルなどとは、まるで正反対である。
中学時代から、クラシックの分野での創作活動と並行して電子音楽・前衛音楽にも傾倒するようになり、高校時代に入ると、最低限の機材を置いた自宅のスタジオで多重録音を始める。この作業を経て完成させた、初のミュージック・コンクレート(テープ・コラージュによる現代音楽・前衛音楽の1ジャンル)のアルバムを自主制作LPとして50部発表している。
高校在学中の1986年、芙苑晶が結成した自作オーケストラ「Etherophonic Orchestra(エテロフォニック・オーケストラ)」は、全て電子楽器による革命的なものだった。恐らく日本初の試みと見なされる。1986年、『電子オーケストラのためのオラトリオ』や、『エテロフォニー(Etherophohy)』等を作曲。芙苑晶はこの自らのアンサンブルを率いてコンサートをおこない、当時すでに、新聞の地方版等にも採り上げられたり等している。
また、この当時、芙苑晶と、マダム呪々(のちにファー・イーストのレコーディングやレイヴに参加したギタリスト)の二人が中心になって結成した音楽ユニットに「淫心」というものがあった。最初は、バタイユの幻想小説『眼球譚』の朗読テープを素材にしたサウンド・コラージュから始まった実験音楽のユニットで、マダム呪々の影響でサイケデリック・ロックのスタイルも紛れ込んでいる。しかしこのユニットがのちに発展して、約2年後にはファー・イースト・アシッド・ハウス・クワルテットとなるなど、当時は誰も予想できなかったことだった。
一方、学生時代の芙苑晶はと言うと、成績は非常に優秀で、高校の一・二年と続けて学年トップを取ったこともあった、と、当時のクラスメートが証言している。猛烈な読書家でもあり、高校時代の前半に、図書館の本をほとんど読破してしまったという逸話もある。とくに思想・哲学は彼の得意ジャンルであったようだ。そんな人なので、クラス委員などをつとめた(これは本人はいやがっていたらしいが)こともあったほどである。
学生時代は落ちこぼれ揃いの「ファー・イースト」のメンバーたちの中では異色と言えるが、反面、彼は反体制的な生徒として有名でもあり、すでに「異端児」風であったらしい。
高校二年の時、クラスメートらとともに学校の服装自由化運動を提唱。そのリーダーとして「学生の自由を認めない教師たちの官僚的独裁主義」を告発するビラを全校に配布、日本の教育制度を「産業用ロボットを創り出すための便宜的システムでしかない」と批判。これが原因で、一時、高校を無期謹慎処分にされている。
彼と同じ高校の同級生だったマダム呪々の証言によれば、次のようである。
「どこかボーッとしているところがあって、一見、バカなのか利口なのか分かんないような感じに見えた。でもカンは物凄く良くて、『千里眼』とか言われていたの憶えてる。成績は確かに良かったけど、でも、あまり勉強しているふうには見えなかったな」
「学校の勉強はバカにしていて、いわゆる『優等生タイプ』じゃ全然なかったね。むしろ逆で、型破りなところのある反体制的なタイプだったから、教師たちには『学校内で最も扱いにくい生徒』とも言われていた。だからあの当時から、アキはちょっとした有名人で、人気者だったよ」
(マダム呪々。「地下室」インタビューより)
一方、芙苑晶自身は当時を回想して次のように語っている。
「早く大人になって仕事をしたくって、ウズウズしてた時期だった。だから日本の高校はあまりにもトロくて、もう死にそうだった。全部丸暗記と方程式ばっかりで、どれもこれも就職用の勉強って感じじゃない。ほんとの学問がどこにもないって言うか」
(芙苑晶。ファー・イースト時代のインタビューより)
片や、音楽方面では、高校時代の途中までに、和声学・対位法・ソルフェージュといったクラシック音楽の基礎理論をほとんど独学でマスターしてしまった。高校入学当初は、日本の芸大作曲科進学志望だったが、やめたのは、当時師事していた教師に「もう教えるべきことは何もない」と言われたからであるという。
そんなわけで、高校時代の後半に至っては、自称「ズル休みの天才」で「必要最低限しか行っていなかった」とも言う彼は、早くも体制的価値観からの意識的なドロップアウトと並行して、早くも別世界への探究を人知れず始めていたと思しい。
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| ●クラシック音楽のエリートコースからのドロップ・アウト、ヒッピーへの変貌 |
1987年、高校三年の春休みを利用して、海外単独放浪の旅を挙行。おもにインド、ネパール等、アジア各地を巡った。先住民文化や原始宗教などに関心を持っていた彼には、民族音楽や古代音楽を探究するという目的もあったようだ。
とくに、インドやネパールに立ち寄ったさい、現地で偶然聴いたネイティヴの民族音楽に、強い感銘を受けたと語っている。学生時代から、クラシック以外の音楽にすでに関心を持っていた彼だったが、この体験を引き金として、のちに芙苑晶の音楽は、それまで彼が吸収してきた、クラシック、サイケデリック・ロック、電子音楽、民族音楽といった、さまざまなジャンルの要素を取り入れながら、独自のスタイルへ発展していくことになる。
しかし、この放浪の旅は予定より長引き、約一ヶ月半にも及んだ。そのため帰国後、「無断での長期欠席と法外な課外活動」を理由に、高校を退学処分となってしまう。とは言え、元々非常に優秀な生徒であったため、周囲の大人たちは彼に「(大検を取って)日本の芸大へ進学すること」を勧める。
だが彼は、これを自ら拒否し、「人生になんの役にも立たない受験体制のための勉強など、もう一切しない」と答えたという。実際彼は、この時点ですでに、アカデミックなクラシック音楽の勉強にも、興味を失っていたらしい。そしてこの時期以後、彼が辿った人生コースは、数奇で風変わりな経歴を彩ることになる。
日本の高校を三年で中退後、17才で単身ヨーロッパへ渡り、思想・哲学を学ぶ。主にドイツ(旧・西ドイツ)に滞在、ケルン大学に学んだ。専攻は古代の神秘主義思想。「原始宗教の秘儀」というテーマで論文を書いた。
この時期、音楽方面では、余暇には作曲活動もおこなったほか、「神秘象徴主義音楽」という新しい手法を提唱している。のちのインタビューと照合すると、最初に幻覚剤・メスカリンを体験したのも、おそらくこのヨーロッパ滞在の時期であったといわれる。
この時点ではまだクラシック音楽の延長線上にある現代音楽のスタイルであったものの、おそらくこの時期を境に、音楽のみならず、ライフスタイルも急激に変化していったものと思われる。少し前まで、クラシック音楽のエリートコースを歩んでいた少年が、突然、人生コースをみずからドロップアウトし、やがて次第にヒッピー化したのである。のちのファー・イースト時代以降に見られる、どこか求道者的なキャラクターが芽生え始めたのもこの時期だったに違いない。
芙苑晶自身は、この時代のことについては多くを語っていないが、ファンの間にはいくつかの憶測が見られる。(のちに芙苑晶の、ひいてはファー・イーストのテーマともなる)LSDやメスカリン等のサイケデリック体験による自我の崩壊と覚醒と再構成とが、一人の少年の価値観を根底から変えてしまった、というもの。あるいは、既存の体制への猛烈な反撥が大転換を成し遂げたのだ、とする説。
あるいは、彼の一つのルーツと思しい、古代神秘主義思想は、原始宗教の儀式にも通じる「トランス」音楽の発見やファー・イースト的な世界観の根底にも影響が見られる---等と指摘する人までいる。
このはた目には不可解に見える変貌の理由は、未だに定かではないし、一つではなかったかもしれない。しかしいずれにせよ、この頃、内面的にかなり大きな価値観の大転換があったのではないかと思われるふしが多々あるのは事実だ。
「現代文明そのものに対して、このころから僕は、だんだん懐疑的になっていった」
「インドには、叡智があった。今の先進国が、物質的な豊かさと引き換えに失った何かが、そこにあった」
(芙苑晶。エッセイ『音楽家廃業のすすめ』より)
ちなみに、高校時代のクラスメートで友人の一人は、当時の芙苑晶を回想して、のちにこう語った。
「あの頃から長髪にしてて、なんとなく風変わりだったけど、でも性格はおとなしくて、一見ごくふつうの真面目な子。しかも成績は凄く良くて、入学当時は学年トップとか、そんな感じで。だからあいつなら国立の芸大でもストレートで入れるって、先生に太鼓判押されてたんですよ。それが、突然あんな風になるなんて、考えられないこと」
(高校時代の同級生。ファー・イースト・アシッド・ハウス・クワルテット、FC会報より)
この元・クラスメートは数年後、「ファー・イースト」の野外レイヴに招待されたが、長髪に髭を生やしサンダル履きという、風貌からして高校の頃とはまるで別人のような芙苑晶を見て、「激しいショックを受けた」と言っている。当時、かつての友人たちの間では、「晶は気が狂ってしまったんだ」という噂さえ流れたことがあったという。
ヨーロッパ留学を経て、日本に一時帰国したのは、翌年・1988年の2月半ば頃。2月のある雨の日(20日頃か?= 推定)、市川カヲルが、芙苑晶の家を訪ねる。正確には、当時、すでに京都に移り住んでいた姉のマンションに寄宿していた芙苑晶を訪ねた形である。カヲルは、「バンドを作りたいので入って欲しい」という誘いかけるが、当初アキは「バンド活動にはあまり乗り気ではなかった」という。当時はまだ、将来をどうするかについて、迷っていたらしい。
しかし、アキとカヲルは、初対面から妙に気が合ったらしい。最初カヲルが彼を訪ねた夜、二人で音楽以外の話になってしまい、「異様なほど盛り上がって、明け方まで話し込んだ」と、市川カヲルは言っている。
この最初の出会いから二週間後の3月7日、当時京都にあった地下のレゲエ・クラブで他のメンバーたちと実際に会ってみて、彼は、他の連中の人柄が気に入り、バンドに入ることにした。これが「淫心」であった。
元はと言えば、芙苑晶とマダム呪々の二人が高校時代にやっていた不定型な実験音楽ユニット「淫心」(第1期)と、田嶋エリサ、市川カヲル、スペースDJリョウの三人による「蜘蛛」が合体し、第二期「淫心」がスタート。このメンバーで「淫心」のセカンド・アルバムの録音中にマダム呪々が脱退し、88年5月、セカンド・アルバム『鳥どもの家』が完成、リリースされる。
インダストリアル、フリージャズ、ミュージック・コンクレートなどが入り乱れ、まだ未分化で混沌とした響きのある(そしていくらか不気味なムードも漂っている)ものの、リズム・パートはほとんどハウスのそれであり、とくにアシッド・ハウス的なサウンドがはっきりと導入されていた。
アナログ・シンセサイザーがうねるように変化する幻覚的な響きをバンドに導入したのは芙苑晶である。この時期、芙苑晶の初のソロ電子音楽ユニット・プロジェクト「幻覚植物研究所(Psychedelic Plants Research Laboratory)」の自主制作盤1stアルバムが限定リリースされているが、彼はこのプロジェクトで試みた手法を、「淫心」のアルバムにも応用し、また別な方向に発展させたのだった。
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| ●アシッド・ハウス・ムーヴメント〜「ファー・イースト」誕生と人生の岐路 |
アルバム完成後の88年夏、「淫心」の4人はロンドンへ渡り、ここで偶然にもアシッド・ハウス・ムーブメントに遭遇する。「淫心」の中に混在していたさまざまな要素が、ある意味で整理され、ある方向に向かって結晶作用を起こすのはこの時である。
そしてこの7月、彼らはバンド名をファー・イースト・アシッド・ハウス・クワルテットと改めて再出発する(なお、この「再出発」当初のバンド名であった「LSD Liberation Front(LSD解放同盟)」という過激なバンド名を考えたのは、芙苑晶である)。そして、彼らを見出したデヴィッド・ローレンツ氏をプロデューサーを迎えて、「ファー・イースト」の1st アルバム『十億の神経の針(A Billion Nerve Needles)』の制作が始まる。
さて、これは、ファンにもほとんど知られていない話だが、実はこの時点で、ファー・イーストの1stアルバムのレコーディングを終えたら、芙苑晶は、他の三人を現地に残して、再びドイツに戻るつもりだった。彼にはもう、あまり時間がなかったのだ。
なぜなら、この渡欧のさい、芙苑晶のみ他の三人と別な目的があったからだ。当初の予定では、彼は、イギリス滞在の後にドイツ(旧・西ドイツ)のケルンへ移住し、大学に復学する予定で、正式に準備も進めていたらしい。
元はと言えば、淫心のメンバーたちがヨーロッパ行きを決めたのも、一つには、その時点ですでに、芙苑晶の前年度からの続きとなるはずの留学が決まっていたからだった。つまり他の三人は、彼の予定に半ば便乗するような形で、渡欧したのだった。
ところが、この『十億の神経の針(A Billion Nerve Needles)』のレコーディング中に、芙苑晶はものすごくたくさん曲が出来てしまったらしい。そして、芙苑晶の才能に惚れ込んでしまったデヴィッド・ローレンツが、このレコーディングでのアウトテイクを元に、芙苑晶のソロ・アルバムを作ってはどうかと持ちかける。「ファー・イースト」のデビューアルバムのレコーディングも終わらないままに、ソロ・デビューの提案が浮上してきたのである。
これがのちに、彼の公式なデビュー・アルバム『燐光(Phosphorescence)』( Siamese Twin 名義)が制作されるきっかけとなったわけだが、しかし、この突然降って湧いたようなバンドのレーベル契約とソロ・デビューの話は、芙苑晶にとっては、他の三人のメンバーにはなかった「究極の選択」を迫られる出来事でもあった。
1988年の夏は、ファー・イーストのアルバム・デビューや、セカンド・サマー・オブ・ラブ、メンバーたちのサイケデリック体験等々といった派手な話題が続いたため、ファンにとっては見落とされがちなことであるが、芙苑晶にとっては、一つの人生の岐路とも言える出来事であったのだ。
芙苑晶は、ファー・イースト及びソロ・アーティストとしてのデビュー話と、大学行きのプランとの間でしばらく悩んだ末、音楽活動のほうを取った。この決断が、ファー・イーストというバンドの運命を決定し、彼の運命をも決定した。
ファー・イースト・ファンなら、アキがここで最良の選択をしてくれたことを、喜ぶに違いない。この決断がなければ、ファー・イーストは1枚だけアルバムを出して消えた「幻のバンド」として、永遠に忘れ去られたかもしれないからだ。
しかしその結果、彼は親を裏切った形になり、これ以降、母親との仲がこじれる原因ともなった。元々、クラシック音楽なり学問の世界で充分やっていける才能を認められていた息子が、高校も辞め、大学も入ったばかりで中退したうえ、将来のプランをも突然放棄して、まったく別の世界に飛び込んでしまったからである。
そしてのちに、とくにファー・イーストでの一連の活動を「破廉恥で反道徳的で、狂気じみた行為」として母親から激しく非難され、さらにのち、後年になるほど、常軌を逸した行動パターンが目立つに至って、彼はとうとう親から勘当されることになる。
「音楽で食っていくのはもう、あきらめかけていた。また、その気もなかった。十八の僕はすでに厭世的になっていて、人生に失望しきっていたのだ。(中略)それで将来は、神秘学の研究家になって大学で教えながら、趣味で作曲をやるのもオツな人生かもしれない、と思うようになっていた」
「とくに、その前の年、あんな形で高校を辞めてしまい、クラシック音楽の勉強も捨ててしまって以来、僕はまるで狂人扱いだった。(中略)
それで、その混乱に蓋をするために、ドイツの大学で勉強して哲学の学位を取り、日本に戻ったら学校の先生になると、僕は親に約束して、二度目の渡欧をしたのだった」
「だから、元はと言えばこの二度目のヨーロッパ行きは、僕ら淫心のメンバーたち自身のための『最後の祭』として、おこなったものだ。つまり、ほんとうなら、あれで全部終わるはずだったのだ。
だから『十億の神経の針(A Billion Nerve Needles)』は、いわば自分たち自身のための、青春の最後の記念写真みたいなもの、というつもりで作っていた」
「しかし、今度はそこに、ソロ・デビューの話がやって来て、将来に迷っている僕に、他のメンバーたちは皆、優しかった。三人とも、僕に気遣ってくれていた。『元々遊びで来て、偶然こんなことになったんだから、俺らのことは気にするな。お前は選びたいほうを選べ』と、リョウが言った。エリとカヲルの二人も、同じようなことを言っていた」
「まるまる一週間ほど悩んだ末に決意して、『バンドをやろう』と僕が言った時、誰からともなく、みんなが肩を抱き合って泣いた。バンド結成以来、初めてのことだった。
エリがポロポロ涙を流しながら、『きっと、儲からないバンドだよ』と言った。僕は、『知ってるさ』と答え、みんなが大笑いした。その夜、すべてが決まった」
(芙苑晶。エッセイ『白痴あるいは半狂乱』より)
9月に入ると、市川カヲルは体調を崩して日本へ帰り、リョウはイギリスに残ったが、芙苑晶は、スペインのイビザ島のコテージ(アレックスというヒッピーのミュージシャンが借りていた海辺の一軒家)に移り、ソロ・アルバム『燐光』のレコーディングをおこなう。
イビザには、田嶋エリサも同行してきていた。ロンドンにいた時、すでに恋仲になっていたといわれ、のちに夫婦となる彼ら二人の、これが最初の同居生活でもあった(ちなみに、1stに収録された「ファー・イースト」初期の名曲「Ibiza Breakfast - イビザで朝食を」は、エリからの求愛の「返事」として、彼が書いた曲)。
ファンにはよく知られたエピソードだが、『十億の神経の針』がそうであったように、『燐光』もまた、LSDやメスカリンといったサイケデリックス(いわゆる幻覚剤)体験からの影響から誕生したアルバムだった。
「ドラッグ・バンド」のイメージも強い「ファー・イースト」だが、この当時、芙苑晶が最も熱中したのはサイケデリック・ドラッグだった。「ファー・イースト」のアルバムだけでなく、芙苑晶の1990年代に発表されたシンセサイザーを使ったソロ・アルバムは、どれもアシッド(LSD)からの影響が感じられると指摘する人たちも多い。
それだけなら、よくあるトリップ・ミュージックで終わってしまうが、芙苑晶(ないしは「ファー・イースト」)の音楽のユニークさ・独創性は、そういった体験をエレクトロニック・ミュージックと融合しつつ、ヴァーチャル・トリップの幻想空間を作り出したことだろう。つまり、こうした一連のサイケデリック体験から得た幻想感覚・超越感覚が、電子音楽のテクニックとサウンドに結びつくことで、映像的に表現され始めたのである。
「ファー・イーストや僕の1stが斬新だったのは、その手法だと思う。それ以前のサイケデリック音楽は、『その音楽をかけながらアシッドをやると飛べる』みたいな感じで、トリップ用のBGMとしてしか作られていなかった。
僕らはそうじゃなくて、『自分たちが体験したサイケデリック・ドラッグの世界を、音楽で映像的に描写する』というアイディアを持っていた。つまり、アシッドやメスカリンなんかを体験したことのない人が聴いても、『あの世界』が伝わるようにしたかったんだ。これはそれ以前のサイケデリック音楽には、なかった手法だと思う」
(芙苑晶。英語版インタビューより)
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| ●「幻覚植物研究所(Psychedelic Plants Research Laboratory)」 - トランス音楽とレイヴの原型誕生 |
1989年の夏頃、芙苑晶は、友達から募ったカンパを元手にして、ヨーロッパを起点に、数ヶ月にわたる世界単独放浪の旅を始める。文字通り住所不定・無職のバッグパッカーのヒッピーとしての、本格的な無銭旅行であった。彼は、ヨーロッパとアジアの各地を回り、現地の音楽や文化、人々の姿に触れた。
さらに秋頃、アメリカへ渡り、各州をヒッチハイクで転々として、ニューヨークにたどり着いた。芙苑晶は現地でアメリカ人の友人と知り合い、アメリカ各地のネイティブ・アメリカンの居住地を訪ね、セッション・レコーディングもおこなった。また、ネイティヴ・インディアン・チャーチの儀式でペヨーテ(メスカリンを含む幻覚性サボテン)やDMT等のサイケデリック・ドラッグを経験した芙苑晶は、神秘的で壮大なヴィジョンを見る。これは彼にとっては、もう一つの新たな転換点ともなったようだ。
NYの友人のアパートメント・ハウスに戻り、旅先で録音したセッション・テープからサンプリングし、それをビートにして新しい音楽を作り始める。今で言うトライバル・トランスやゴア・トランスのような手法を基本とする、このスタジオでの実験が元で誕生したユニットが「幻覚植物研究所(Psychedelic Plants Research Laboratory)」だった。
幻覚植物研究所(Psychedelic Plants Research Laboratory)は、今では伝説的にすらなっている、芙苑晶のソロ・トランス・ユニットである。このユニット名が暗示するように、このバンドのテーマになっていたのはシャーマニズムとサイケデリアだった。このアイディアを基本に、彼らは当時自分たちが興味を持っていたさまざまな思いつきを全部ぶち込み、ニューヨーク各地でゲリラ的ライブをおこなう。
芙苑晶は、コンサートの中で、電子音楽や民族音楽をベースに、シャーマニックな祝祭の場を創造しようとしていた。彼らは街の片隅で忘れ去られた廃墟のビルや、建設工事中のビルの裏地などを利用し、炎を焚き、ビルの壁にサイケな映像を投影し、ストリップ劇場で働いている女の子をダンサーにし、ボディ・ペインティングを見せたり、半裸で踊らせたりといったユニークな演出を見せる。時にはサクラも交えて、客がステージに上がってダンサーとともに踊ったりする。
音楽も新鮮なものだった。「幻覚植物研究所(Psychedelic Plants Research Laboratory)」のファースト・アルバム『Mars Botanical Garden(火星植物園)』(1989)には、今で言う「トランス」の原型とも言えそうな音楽が初めて聴かれることになる。このことから幻覚植物研究所をトランス(とくにサイケデリック・トランス / ゴア・トランス、ないしはトライバル・トランス)の元祖と見なす人たちもいる。アルバムタイトルの「火星植物園」とは、幻覚植物を意味している。
また、アメリカのネイティヴ・インディアンの集団におけるポトラッチ(贈与交換儀式)にヒントを得て「レイヴ = 古代の祭儀の現代における復活とポトラッチ」というテーマを考え出したのは、芙苑晶である。
「幻覚植物研究所の初期の音楽やレイヴは、アメリカのネイティヴ・インディアンの宗教的儀式がかなりヒントになっていた。それとペヨーテで見た壮大なヴィジョン、こういうものがエレクトロニック・ミュージックと結びついて、原始と未来がリンクするというヴィジョンが出てきた」
「
当時のNYのアート・シーンに反発していたんだ。80年代の半ばには、ローリー・アンダーソンとか、ああいうソフィスティケートされたモダニズムのパフォーマンス・アートが流行っていたんだけど、僕はああいうものも全然好きじゃなかった。
そこで僕が考えたのは、時代の流行の全く逆を行くような、古代の宗教儀式みたいなドロドロしたやつ・・・。祭儀っていうものが失われた今の時代だからこそ、そういう原始宗教的なものを蘇らせよう、とね。それで音楽や映像やダンスをぶち込めば、何か動きをともなう、新しい総合芸術が見つかるんじゃないか、と」
「それで僕らは取り壊されかけた廃墟のビルでライヴをやり、貧乏な詩人やアングラの映像作家やストリッパーに出演してもらった。ライヴが始まる前の晩に僕らは、NYのストリートを歩いて、浮浪者や娼婦や麻薬の売人みたいな貧しい連中ばかりわざわざ選んで招待券をあげ、見に来てもらった」
「僕らが夜の10時に廃墟のビルで大音響のライヴをやり、しかも炎を使ったから、途中でパトカーが飛んで来たけど、貧しい黒人の少年たちが『馬鹿野郎、俺たちはコンサートを見てるんだぞ、邪魔すんな! 』って、みんなでスクラム組んで警官が入れないようにしてた。
あれが本物のオーディエンスだって思うと、僕はうれしくて胸が熱くなった。あとでしょっぴかれたけど、全然平気だったよ」
(芙苑晶。Jerry Morton Smith, 英語版インタビューより)
1960年代のサイケ・ロックのコンサートやハプニングを想わせる、こういった彼らのライヴは、NYのメディアにも取り上げられ、さらにのち、幻覚植物研究所(Psychedelic Plants Research Laboratory)を野外レイヴの先駆者として印象付けた。
そしてこの実験的な試みは、芙苑晶の帰国後、そのままのちのファー・イースト・アシッド・ハウス・クワルテットの初期の、独特なスタイルのレイヴ ・シリーズにつながり、独自な方向に発展してゆく。
このことからもわかるように、(「作曲家」としてのイメージが強かったため、そうは思われていないふしがあるが)、アシッド・ハウス(ないしはサイケデリック・トランス)のような音楽や、レイヴという新しい形式を「ファー・イースト」に持ち込んできたのは、実は芙苑晶だったのである。88-89年頃のファー・イーストのレイヴはまだ不定形なものでしかなかったが、この「幻覚植物研究所」での1989年の実験的な野外レイヴのアイディアを経て、初めてそのレイヴのスタイルが本格的なものとなり、のちにファー・イーストの野外レイヴのスタイルの原型を形作ったという順序があったということだ。
「どんなにビデオやDVDが発達しても、幻覚植物研究所やファー・イーストが初期にやっていたような野外のレイヴ、あれをデジタル・ディスクに記録することはできない。あれは、あの場に居合わせた人にしか体験できない、一種のリアルタイムで全感覚的ものだから」
「タイミング的にもちょうど良かった。NYだけじゃなく、世界中の都市が無菌化されようとしていた最初の時代だった。今あれを再現することができないのは、都市空間の中で、そういう廃墟みたいな場所がほとんどなくなってしまったからだ。
そういう点で、あれは僕の一種の発明だと思う。そのことがわかっていたからこそ、僕らはあの時代に、あえてああいうことをしたんだ」
(芙苑晶。英語版インタビューより) |
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| ●アシッド・テクノ / トランス音楽のパイオニア |
芙苑晶が「幻覚植物研究所」やファー・イーストの音楽にアシッド・ハウスを導入した1987-88年当時、ニューヨークですらほとんど誰もアシッド・ハウスのことは知らなかった。ましてや日本においては、それはまったく未知の音楽であった。
今では芙苑晶は、最初に「アシッド・テクノ(アシッド・ハウスを含む広義でのアシッド系トランス・ミュージック)」を手がけたソロ・アーティスト/作曲家だっただろうと言われている。
88年当時すでに彼は、自分のソロ作品やバンド・プロジェクトでの音楽を「アシッド・テクノ(Acid Techno)」(または「エレクトロニック・アシッド(Electronic Acid)」)と呼んでいるのだ。アシッド・ハウス・ムーヴメントを起点とする(今で言う)「トランス」音楽の先駆者でもあったわけだ。
ここで少し話がバイオから脇にそれるが、これは「ファー・イースト」の音楽や野外レイヴの成立ちと歴史に欠かせない重要事項なので、ここでその方面にスペースを割いてみよう。
アメリカのライターであるJerry Morton Smith氏によれば、「『トランス』音楽の起源はいくつか考えられうるが、私の考えでは、トランスを発明したのは日本人のAQi Fzono (芙苑晶)であり、その起源は幻覚植物研究所、ないしはファー・イースト・アシッド・ハウス・クワルテットにまで遡ることができる。また、トランスの定義を拡大解釈するなら、その源流は日本の淫心の2ndアルバム『鳥どもの家』(1987年発表)にまで遡ることが可能である」という。
具体的に、明確な形で分かる作品としては、前述の幻覚植物研究所(Psychedelic Plants Research Laboratory)の1st、そしてわれらが「ファー・イースト」の1st『十億の神経の針(A Billion Nerve Needles)』(1988)、芙苑晶の1stソロ・アルバム『燐光(Phosphorescence)』(1988)がある。
同じ時期に立て続けに発表されたこれらのアルバムの大半の楽曲は、芙苑晶が作曲・プロデュースを手がけたものである。
興味深いのは、87年頃出てきたシカゴのアシッド・ハウスはファンキーなブラック・ミュージックの延長線上にあった「横ノリ」のダンスミュージックだったが、今述べたいくつかのアルバムは、むしろヨーロッパのアシッド・ハウス〜のちのサイケデリック・トランス / ゴア・トランスにつながる路線の「タテノリ」のダンスミュージック・・・つまり、現在の「トランス」と言われる音楽に限りなく近いのだ。
これは、実際に「トランス」がヨーロッパ(ドイツ)あたりで出てくるのが1992年頃であることを考えると、驚異的であり、このことから芙苑晶に対する「トランスの予言者」的な評価、レビューが、ずいぶん後になって出てきたものと思われる。
「この頃まだ僕は自分が、テクノの作曲家だとは思ってませんでした。あの頃テクノと言えばまだ、クラフトワークとかYMOって感じだったから。
でも僕の志向性は、ああいう無機質なモダニズム風の音楽と正反対で、サイケ・ロックの陶酔感を持った電子音楽が作れないか、っていうアイディアを持っていた。今から思うと、それが今で言う『トランス』のような音楽を発見したキッカケだったんじゃないかな」
「当時はまだトランスという言葉はなくて、ただ単にテクノとかハウスと言ってたと思う。でも僕は、それら以外に何かもう一つある、って言ってたんだ。電子楽器がビートを刻んでるのは同じでも、ロックの陶酔感と自由、クラシック音楽のアレンジ技術、そういうものを結びつけた新しい音楽があるはずだ、と」
「アシッド・ロックがあるのに、テクノじゃ誰もやってないことが分かってたからね。だったら僕がやればいいじゃないか、と」
(芙苑晶。英語版インタビューより)
「トランス」登場後の93年頃に発表されたインタビューでは彼は、「ジャーマン・トランス・テクノがイコール、トランスの定義になったら危険だ」と指摘している。
「僕の考えていたトランス・ミュージックは、そんな狭いものじゃない。それは21世紀のロックになりうるもので、それがちゃんと発展すれば、22世紀には新しいクラシックになりうるようなもの」
こういった調子で彼は、当時すでに「トランス」の可能性、定義、方法論などについて、詳しく述べている。このことについて述べると長くなるので略するが、この方面の理論家でもあったわけだ。
(2007年に彼の公式サイトで発表された『恍惚的宇宙論/トランス・レイヴ・コスモロジー(Trance-Rave Cosmology)』のインタビューにおいても、「トランス」音楽についての所見のアウトラインを分かりやすく述べている箇所があるので、興味のある方はそちらを参照してほしい。)
また、幻覚植物研究所がニューヨークで上演した野外レイヴでも分かるように、日本はおろか世界レベルで見ても、最初に「レイヴ(野外のレイヴ・パーティ)」の原型となるコンサートを最初に考案・企画した人物だという説もある。「ファー・イースト」のレイヴのプランを考案したのは、おもに芙苑晶・田嶋エリサの二人だったが、基本となるアイデア面では実は芙苑晶の発案がベースになっていた。
トランス・ミュージックにせよレイヴにせよ、面白いのは、たんに先取りしたとかいうのではなく、それらが芙苑晶独自のサウンドなり、宇宙観・世界観が表現されたユニークな作品世界であることだ。
たとえば、後年(おそらく90年代後半以降)になって登場する、数え切れないくらいの「トランス」音楽と、芙苑晶や「ファー・イースト」が手がけたこれらの初期作品を比べてみると、確かにサウンドやリズムといった表面的な部分では共通項も見られるものの、それらとは「濃さ・深さが全然違う」あるいは、「稀有なオリジナリティがある」といった感想を述べる人も多い。
「ファー・イースト」のレイヴのスタイルについてもほぼ同様のことが言える。実際、未だに彼が考案してきたそれらの音楽やレイヴと類似のものがほとんどないことが、その証拠と言えるだろう。それはおそらく、ジャンルというものがまだ定まっていない黎明期に新境地を模索していた先駆者ならではのテイストではないだろうか。 |
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| ●スケールアウトした天才か奇人か? |
同じ1989年の暮れ、芙苑晶は、オランダはアムステルダムに移住する。アムステルダムは、当時の彼のお気に入りの街だった。この時期以後、ここを拠点に、ニューヨーク、インド、日本など、世界各地を往来しながら活動をおこなう日々が始まる。
当時、メンバーの中ではただ一人だけ、海外に在住していた彼は、「ファー・イーストのヨーロッパ支部担当」のような感じになった。この家に時々、エリやリョウが訪ねてきて、泊まっていった。
一方、アキ自身は、日本に戻るたび、ファー・イーストのレイヴやレコーディングに参加するというスタイルを取った(92年以降は、田嶋エリサがオランダへ移って彼と結婚したため、以後、アキ・エリの両人は行動を共にした)。このシチュエーションが、ファー・イーストがのちに国際的な活動をする足場となった。
一方、バンド全盛期の「ファー・イースト」ファンたちから見た芙苑晶は、どうだったのだろうか? 他の三人に比べて天才肌のクリエイター的要素が強く、ライブでは地味で、派手なアクションもあまりないこの人のことは、「あまり印象に残っていない」と答えるファンも多い。
ルックスだけで派手な印象を残す「ファー・イーストのシンボル」とも言えそうな田嶋エリサ、ライブでの強烈なMCやパフォーマンスで知られ、若者を扇動するような過激な発言も多かったDJのリョウ、「ファニーフェイスのズベ公タイプ」と見られ、ある種の親しみやすさで男女問わず人気のあった市川カヲル。この三人に比べると、芙苑晶の陰はなんだか薄かったのも事実だ。
しかし、芙苑晶にも熱烈なファンたちはいた。その人たちは、当時の彼のことをよく覚えていた。ライブでは、トレードマークの腰まで伸ばした長髪に、メキシコの極彩色のケープ(これは田嶋エリサから彼への20才の誕生日のプレゼントだった)、ズタズタに切れたジーンズ、裸足あるいはサンダルといったファッションが、芙苑晶の当時の定番スタイルだった。
暗いステージの奥のほうで(楽器の配置の関係上、彼は一番後ろに来ることが多った)7、8台ものキーボードをコの字型に周囲に並べ、長髪を振り乱してパワフルに弾きまくる姿は、ロック系のファンにも崇拝されていた。
「クラブのリック・ウェイクマン」「男ジャニス・ジョプリン」(ヒッピーファッションと派手なサングラス、長髪が似ていたのと、裸足が多かったため)などといったユニークなあだ名でクラバーたちに愛されたのもこのころだろう。
今振り返ってみると、「ファー・イースト時代のアキ」のファンたちは、およそ三つのタイプに分かれていたようである。
第一は、
ライブでの追っかけ的ファン。これは当然、女の子のファンなども多かった。第二は、芙苑晶の音楽的才能に惹かれていたタイプの人たちで、テクノや電子音楽のリスナー等が中心。これは男の子勢もきっと多かっただろう。ファー・イーストのレイヴでは彼のことを覚えていなくても、アルバムを買うと、芙苑晶の名が作曲クレジットに記された曲がどれも「スゴイ」と気づき、彼らは芙苑晶のソロ・アルバムも買っていった。
第三のタイプは、芙苑晶のエキセントリックなキャラクターに惹かれていた人たちで、これはおもに、その当時から日本の若者世代にも広がり始めた「ネオ・ヒッピー」とも呼ばれるライフスタイルに共鳴した人たちである。
エキセントリックなキャラクターとは何か? ファンたちの芙苑晶に対する評価はさまざまだったが、その中で共通したイメージは、「天才」というものだったかもしれない。天与の音楽的才能は言うまでもないとして、「なおかつ、目立たないところで努力するタイプ」と、他のメンバーたちはアキのことを異口同音に評価する。
「ひまがあると自分の部屋にひきこもっては、本を何十冊も読んだり、何かを研究したりしている。そうかと思えば、突然フラッと放浪の旅に出かけてしまう、そんな人」と、田嶋エリサは言った。
そんなアキが、他の三人と違ったのは、人に自分のことを理解されようなどとは夢にも思っていないような、唯我独尊的とも受け取れるキャラクターだったろう。しかしこのことは裏返せば、どこか謎めいたカリスマ的な人物像、スケールアウトした異星人のようなイメージを持たれていたとも言える。
そして、自分の世界を見い出そうとしていた求道者的な若者にありがちなように、芙苑晶のこうしたキャラクターは、日常生活においては、他のメンバーどころではない奇妙な行動パターンを見せることがあった。
ファッションには極端に無関心で、当時彼の着ていた衣類のほとんどは、ファンからのもらい物が大半。そもそも、のちにトレードマークとなったあの芙苑晶の腰まで伸ばした長髪は、意図されたものではない。本人曰く、「美容院に行くのが面倒で、放っておいたらああなっただけ」。
腕時計は持っていない。その理由は「時間を気にするような人間になりたくないから」。靴も一足しか持たない。ある日、どこかに用事があって出かけていったが、出かけ先のどこかで靴を失くしてしまい、裸足のまま歩いて家まで帰ってきたのを、当時すでに同棲していた田嶋エリサは二度にわたって目撃していた。
ついでに、年賀状は生まれてこの方一度も書いたことがなく、冠婚葬祭には(自分のごく親しい人以外)一切出席しない。遊び好きな三人に比べ、基本的に遊び音痴。酒もほとんど飲めないし、飲み会の時なども、一人だけ隅のほうにぽつんと座っているだけ。ファー・イーストの他の三人のメンバーたちがクラバーだったのに対し、芙苑晶にはそういう要素がなかった。のちに他のメンバーからの影響で、彼もクラブというものを知り、1990年前後には、そこに連日通う日々もあったのだが、バンド結成当時は、その存在すら知らなかったという。
一見、「おとなしそうな人」に見えた芙苑晶だが、冒頭にも述べたとおり、メンバー中、最もサイケデリック・ドラッグに熱中したのは彼だった。芙苑晶自身、のちのインタビューで、当時は「まるで食事代わりに、二日に一度ぐらいの割合で」アシッドやメスカリンをかなり濫用していたことを告白している。時には、アルバムのレコーディング中にアシッドを飲んでバッド・トリップしてしまい、パニックに陥ったこともあった。
そして、これはごく親しい人たち以外、誰も知らなかったことだったが、ファー・イーストでの激しい野外レイヴのイメージとは裏腹に、彼はまるでジキルとハイドのように二重生活をしていた。他の三人が遊び呆けている間、彼はスタジオにひきこもって、さまざまなエレクトロニクス機材を駆使してサウンドの実験に取り組みながら、数え切れないほどのサイケデリック体験によって得た幻覚のヴィジョンを、音楽で描き出そうとしていた。これがそのまま、芙苑晶の初期のソロ・アルバム群のモティーフとなっていった。
そして、
ファー・イーストというバンドのイメージ自体をはみ出してしまったようなスケールアウトぶりは、バンド後期、彼がソロ活動に傾くにつれて、どんどん極端なものになっていくのである。
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| ●レイヴ・コミューン - 「灰と太陽の共和国」、「ネオ・ヒッピーの元祖」 |
1990年代の初め、日本をはじめ、ヨーロッパ(アムステルダムやロンドンが中心)、さらにはアジア(インドのゴアが中心)などで知り合ったレイヴァー / トラヴェラーたちと、レイヴ・パーティのネットワークが出来上がってきていた。アンダーグラウンドではあるが、地球規模に広がるこのネットワークを一種の「ヴァーチャル・コミューン」と見なしたのは、芙苑晶だった。
この思想に田嶋エリサが共鳴し、「ファー・イースト」の他のメンバーやスタッフ、さらには他のテクノ系ミュージシャン、アーティストや詩人、ヒッピー、レイヴァー、フリーター・・・そういった、おもに若い世代の人々がしだいに参加して、「仮想のレイヴ・コミューン」を形成し始める。
これが「Ash and Sun Republic(灰と太陽の共和国)」と呼ばれる「仮想の地球国家」である。「そこでは君主も政治家もなく、法律もない。ただ唯一のルールは、『他人からうばわないこと。与え合うこと』」・・・こう宣言したのも、芙苑晶だった。
そこには、ヒッピー的な理想主義が見て取れるが、だがそれが現代(90年代初期)のレイヴ・カルチャーの中で実現されたことは、注目すべきだろう。のちにレイヴ自体が商業化され、骨抜きにされていくことを思えば、これはトランス / レイヴ史の黎明期における、貴重な1ページといえそうだ。
むろん、コミューン自体は存在せず、それは人の心の中にあるという考えだが、参加者が増えるにつれ、連絡場所や集まる場所が必要になる。そこで、1992年、アムステルダムと日本の長野県の2箇所に、かつてのバンド名を取って「淫心」と名付けられた一種のコミューン・プレイスが築かれる。世界各国のレイヴァーたちが遊びに来て、泊まったり交流したり出来る施設を作ろうというアイデアだった(現実には難しく、ほどなく破綻した)。
「ファー・イースト」のメンバーやスタッフ、とりわけ芙苑晶と田嶋エリサの二人は、この「レイヴ・コミューン」構想の中心になり、彼らの友人も参加した。飲み会の席で芙苑晶が冗談半分に「国家内国家」と言ったのがきっかけで、「ファー・イースト」は「国家内国家」宣言をする(元々は半分ジョークだったのだが、ファンには意外な反響を呼んだ)。
同じ頃、日本に帰国中の、1992年頃のこと。日本におけるバブル経済崩壊のニュースを聞いた時、芙苑晶は真っ先に赤飯を炊いて「お祝い」をし、田嶋エリサと二人で近所(二人が仮住まいしていた長野県の農村地方)の人たちに配って歩いたというエピソードは、ファー・イースト・ファンには有名かもしれない。
当時の日本で、バブル経済崩壊をこんなに大喜びしたのは、彼一人ぐらいだったかもしれない。ここまで来るとほとんど奇人だが、早くからインタビューで、アキは、高度経済成長の結果生まれた現代の管理社会を、「高度悲惨社会」と言っていた。そして現代(当時・1990年代初期のバブル時代)の日本を「ニセモノの繁栄」「今までが狂っていた。これからはまともになっていくだろう」、さらに「今の資本主義体制はもう終わっている」、「オヤジ文化はもうオシマイ」と早くから公言していた彼らしいエピソードである。
これらの発言には、どういう意味があるのだろうか。芙苑晶が当時、機関誌「地下室」に掲載したエッセイから拾ってみよう。
「文明が『高度に発達する』と言う時、今の人間たちは、『高度』という言葉を、経済システムに関連させてしか使おうとしない。
人間の精神が発達するとか、霊的に高度になる、というような意味で使っている人は、ごく稀な例外でしかない。
ほとんどの人間たちは、ただ物質的に豊かになって、科学のお陰で生活が便利になることだけが『文明の発達』だと思いこんでいる。
これは、現代社会における、最も悲惨かつ不幸なことである」
「だが、そのような考え方に基づいて組み立てられた社会は、すべてを管理するという方向に向かう。
しかも、
人間を管理するのではなく、金を管理しているだけでしかない」
「誤解しないで欲しいが、僕は、金や経済そのものを否定しているのではない。
金とか経済というようなものは、はっきり言って、どうでもいいものだと言っているのだ。
それは、ただの道具に過ぎない。人間が生きていく上で使ういろいろな道具、歯ブラシやタオルや傘や靴なんかと、等価なものである。
道具を道具として正しく使いこなせる人間が、ほんとうの金持ちである。道具に囚われているのは、ただの奴隷である。(中略)
僕がかねてから、現在の資本主義のシステムは奴隷を大量生産するシステムだ、と言っているのは、この意味である。つまり、分かり易く言えば、『うばうシステム』だ。
今の世の中にあるさまざまな物差し、たとえば、家柄とか学歴とか職業とか成功、そういったものたちは、ほとんど全て、今言った、奴隷を作り、働かせ続けるためのシステムに都合が良いようにでっち上げられた巨大な幻想だと言っても、過言ではないのだ
」
(芙苑晶。エッセイ『音楽家廃業のすすめ』より)
こういった、アキならではの「思想的発言」もまた、ファー・イーストの活動やイメージ、さらにはファンたちの間にある種の影響を及ぼした。田嶋エリサがバンドのイメージ・リーダーなら、芙苑晶はバンドの思想的中核と言われたのも、こういうキャラクターのせいだったろう。
当時、彼らの活動や思想を、ほんとうに丸ごと理解していた人が、どれだけいたかはわからない。しかし、イメージは伝わったようで、とくにその思想的リーダーであった芙苑晶はのちに、「ネオ・ヒッピー(Neo Hippe)」とか「ジッピー(Zippie)」(二つともほぼ同じ意味)という言葉が誕生するキッカケを作った人として、当時内外のマスコミにも取り上げられたりし、「ネオ・ヒッピーの元祖」「Mr. Acid」といった異名まで誕生している。
とくに、インタビューでの発言がユニークで、リョウと人気を二分した。過激でパンキッシュな発言が多いリョウに対し、アキの話しぶりはスマートだが、物事の核心を突く鋭い発言もしばしば見られ、「読んでいてスリリング!」という感想を述べた人たちは多く、「ファー・イースト」を全く知らない若者が「ファー・イースト」のファンになるという現象が起きたりもした。
しかしその結果、日本のあるマスコミのジャーナリストの中年男性に芙苑晶は、「君たちはこういうことを人気取りのためにやってるんだろう?」と、皮肉を言われたことがある。その時、芙苑晶はこう答えた。
「そう思うのなら、あなたも僕らと同じことをすればいいじゃありませんか」
「反体制って思われてるみたいだけど、違うんだよ。反体制じゃなくて非体制。だって僕らは、体制を批判するほど、今の体制に興味を持ってない」
(芙苑晶。インタビューより)
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| ●結婚、意識の超越、ヴァーチャル・リアリティへの関心 |
92年、同じバンドメンバーでありダンサーの田嶋エリサと結婚。二人はアーティスト同士としての共同作業を見せた。
たとえば、芙苑晶のソロ・アルバムからの初のシングル「Ruins 2」は、「ファー・イースト」のライヴでもよく演奏された人気の高い曲だが、この曲は元々オランダのクラブでのファッションショーのために作曲されたもので、ショーの時には田嶋エリサがモデルとして出演している(曲中に聴かれる「Hi」というセクシーなウィスパー・ヴォイスは、彼女の声を芙苑晶がサンプリングして使ったもの)。
この曲がショーで使われたのがきっかけで、芙苑晶はしばらくファッションショーとクラブ・イベントの音楽の作曲家として仕事をするようになった。
また、彼はデビュー間もない頃から映像にも興味を持ち、ビデオ・アート作品を制作していたが、妻の田嶋エリサはその良きパートナーになった。彼女はモデルとして出演したり、撮影に協力したりした。
あるいはその逆のこともあった。バンドのライブ活動がほとんどなくなって以後、田嶋エリサが何度かダンサーとして開いたソロ・リサイタルのために、芙苑晶が電子音楽を担当したり、あるいは田嶋エリサが生前発表した唯一の、アンビエント風のソロ・アルバム『神経』(1994)などもやはり芙苑晶がプロデュースし、楽曲提供したりしている。
田嶋エリサから芙苑晶への影響もあった。田嶋エリサがチベットに凝っていたのは有名な話だが、芙苑晶は彼女がバンド内に運んできた、チベット密教の死と再生の教えに、最も影響を受けた人物だ(スペースDJリョウ、市川カヲルの二人はあまり熱心ではなかった)。
とくにこのころ田嶋エリサからのすすめで読んだ「チベットの死者の書」は芙苑晶に深い影響を与えた。ファーイーストの3rd『無法的熱狂祭(Illegal Rave)』(1993)、芙苑晶のソロアルバム『荒廃(Ruins)』(1993)などに、そういった影響が随所に感じられる。
芙苑晶は、エリとともに、日本のチベット密教の研究家のもとを訪ね、しばらくのあいだ、チベット密教を学んだり、二人で瞑想やヨーガをやったりし、「多くのことを学んだ」と語っている。この頃、「ドラッグには限界がある」と最初に気づいたのも彼だった。
「肉体的なものはどうしても限界があると思う。ドラッグでも酒でもセックスでも・・・始まりがあるように、いつか終わりが必ず来るんだ。
終わりのないエクスタシーがもしあるとしたら、それは純粋に精神的なものだよ」
「チベット仏教や瞑想法を学んだことで、ある意味では、僕らがそれ以前に、ドラッグ体験によって通過した超絶的な感覚というものが、内面的に合理化された。仏教で『サマディ(三昧)』の境地というんだけど・・・つまり、一種の『悟り』だね」
「ただしそれは残念ながら、ドラッグ体験と同じで、言葉では人に伝えられないような種類のことだけどね。でも、その結果、精神的にも肉体的にも、ずいぶん変わって、強くなったと思う」
(インタビューより)
二人は日本に帰国中、サイケデリックの教祖として知られる社会運動家・ティモシー・リアリーとも東京で会見している。リアリーは、芙苑晶が当時から提唱しソロ・アルバムでもすでに実行していた、「エレクトロニック・ミュージックによるヴァーチャル・トリップ = ドラッグレス・トランスの実現」というアイデアに驚き、また彼らもリアリーの思想に共感するところが多かった。
このアイディアは芙苑晶のソロ・アルバムにおいて独自な方向で発展する。「一枚のアルバムを最初から最後まで続けて聴くことで、別世界にトリップするような感覚を持った新しい電子音楽」それは「アシッド・シンフォニー(Acid Symphony)」とも呼ばれ、彼の作曲家としての独創性につながっていった。
むろんそれは彼の「発明」だったが、「ファー・イースト」での活動や曲作り、そして田嶋エリサとの関わりがなければ生まれてこなかったものだ、と彼自身インタビュー等で認めている。つまりこの時期、「ファー・イースト」での活動とソロ・アルバム制作は並行して発展し、互いに影響を与え合っていたことが分かる。
こういった一種の、ライフスタイル的、思想的な面でも二人は共通の関心を持ち、男女を超えた友人同士でもあった。 |
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| ●「バンド脱退」事件 |
すでに述べたように、芙苑晶は「ファー・イースト」のとくに前期において、クリエイターとしてバンドにかなりの貢献をしていた。「ファー・イースト」の最初の三枚のアルバムは、いずれも芙苑晶がそのタイトルを考案し、アルバムの基本となるアイディア自体も提供したもので、のちにその証拠となるメモなども発見されている。
また、サード・アルバムぐらいまでは、メンバーはほとんど作曲能力がなかったので、実質的にバンドの創作面・プロデュース面を引き受けていたのは、芙苑晶に他ならなかった。
しかし、1993年頃以降、彼はバンドを脱退したがっていた。と言うより、「ファー・イースト」はもう解散すべきだ、という意見すら、彼はバンド・ミーティングのさいに述べるようになっていた。
これは、初期にあれだけバンドに貢献した彼のイメージからすれば、意外なことだろう。理由はいくつかあったらしいが、おもな理由としては、ソロ活動のほうに展望が向いてしまったらしい。その一方で、「バンド活動が負担になってしまった」と、彼はのちに言った。
「野外のレイヴっていうのは、もちろん凄い興奮があるわけなんだけど、反面、やる側としては、物凄く消耗するのね。基本的にDIYだから、音響から何から、自分たちで全部やらなきゃいけないじゃん。
最初の頃は、そんなに本格的なものじゃなくて、自分たちの友達集めてそこらへんの原っぱとかでレイヴやる、みたいな。そういう気楽なやつだったから、やってて楽しかったのね」
「それがいつからか、だんだん口コミで客が集まるようになって、ある日気がついたら500人とか、そんな数になっててさ。そうなると、準備も本格的になって、いろいろ大変だしね、だいいち気軽にやれないじゃん。だったらこれはもう、商売とおんなじだろうって」
芙苑晶の「脱退」事件が起きたのは、市川カヲルのドラッグ耽溺問題をめぐって、田嶋エリサ・スペースDJリョウの二人が、スタジオ(注:芙苑晶・田嶋エリサの二人が日本に戻る時のために借りていた、長野県の山中の民家の中の、自宅スタジオ)で大喧嘩を始めた時のことだった。芙苑晶は止めに入ったが、逆に二人に殴られてしまい、そのまま黙ってスタジオを出て行き、戻って来なかった。
「その時はもう、ウンザリだと思った。僕はもう、口を利くのもいやになって、部屋を出て行った。
実はそういうことが、その前にも何度もあったんだ。みんな、ふだんは滅茶苦茶仲がいいんだけど、リョウとエリは気性が激しい面があって、キレるともう、滅茶苦茶だった。とくにカヲルがああなってからは・・・」
(芙苑晶)
「アキは一見、ひょうひょうとして見えるけど、反面すごく寛大な奴で、メンバーの中では一番穏やかな性格だったのね。だからいつも、周りの誰もが『アキは滅多に怒らない』ってよく言っていたくらいなんだけど、それだけにあの時は、みんなこの世の終わりみたいな顔してたな」
(土井昌美、元・マネージャー)
「あたしとリョウがケンカしてる間に、気がついたら突然アキがスタジオから消えてたんで、みんなで慌てて探しに行ったのね。長野の田舎をさ、あっちこっちホッツキ歩いて・・・(中略)。なんかもう、ほとんどドラマのワンシーンみたいだった。
次の日に彼がスタジオに戻ってきた時は、みんなで謝ったよ。あのリョウも珍しく、平謝りに謝ったりして、その時にはアキはもう怒ってはなかったけど、『俺はもう、バンドはやめる』ってハッキリ言ったから、みんな真っ青になったんだよね」
(田嶋エリサ)
当然、他の三人、とくにリョウ(スペースDJリョウ)がこれに強く反対し、この事実は公表されなかったものの、この時期を境に、芙苑晶はバンド活動に消極的になっていく。
彼はバンドを脱退したいと希望したが、長い押し問答の末、結局リョウが「仮のリーダー」となり、芙苑晶はおもに作曲家として(ビーチボーイズにおけるブライアン・ウィルソンのように)バンドに居留まることになる。だがそれは、芙苑晶に言わせれば、「長く退屈で、苦痛な時代の始まり」でもあった。
(なお、リョウがリーダーとなったのはわずか一ヶ月ほどで、持続せず、再びアキに戻った。リョウは音楽的にバンドを仕切ることができなかったためである)
一方、クラブが商業化され、通俗化してゆくのを目の当たりにして、耐えられない思いでいた「ファー・イースト」のメンバーは、92年の暮れ、のちによく知られたあの「クラブ出演停止宣言」をすることになる。
「他の三人がどう思っていたかはわからない。でもあのバンドは、僕の意見では、せいぜい2、3年で終わるべきものだった。
そもそも始まった時点で、バンド名からして短命な性格のプロジェクトだと思ったし、またそのほうが密度も上がるから、二、三年ガーッと濃密にやって、アルバムなんかせいぜい2枚ぐらいでね、打ち上げ花火が夜空で燃え尽きるみたいにして終わるのがカッコいいんじゃないって思ってた」
「60年代末期の西海岸のサイケデリック・バンドがそうであったように、アシッド・ハウスというのも時代とシンクロした一種のカルト現象で、あれは、あの時代にしかない儚いものだよ。
つまり、短いからいいわけで、だからそれが93年以降も、やっぱりこうやって続けよう、みたいになった時、これは何かが違うという感じがしてしょうがなかった。計算が狂ったような、予定になかったことが決められてしまったような、妙に不自然な感じだった。
ほんとは、実質的にはあの時点で解散してたんじゃないかな」 |
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| ●神秘体験、「逮捕」時件、メンバーの死 |
94年の春、芙苑晶と田嶋エリサがヨーロッパを旅行していた時、ガウディの建築を見に行くつもりだったが、途中で気が変わって、フランスのシャルトル大聖堂へ向かった。その時彼らは友人からもらったアシッドをキメていたが、ちょうどアシッドの効果がピークに達した時、両人はともに、かつてない深遠な超絶意識を体験し、一種の宗教的なヴィジョン(幻覚体験)をする。この体験はのちにリリースされる芙苑晶の4枚目のソロ・アルバム『伽藍(Cathedral)』(1995)のモティーフとなる。
このころになると芙苑晶は、ソロ・アーティストとしての活動に情熱を注ぐようになり、「ファー・イースト」はほとんど義理でやっているという感じになっていたらしい。メンバー同士も、以前のようには顔を会わさなくなっていた。
皮肉なことに、このころから「ファー・イースト」伝説が肥大し始めるのだが、4th『肺魚の夢(Lung Fish Dreams)』(1995)以後のアルバムは、彼ら自身宣伝もほとんどしなかったため、以後は、ほとんど事実上忘れ去られたバンドとなっていった。
「ファー・イースト」の後期を支配しているのは、いくつかのスキャンダルと言っていいような事件である。その事件のほとんどには、ドラッグが絡んでいた。
93年10月、芙苑晶・田嶋エリサ夫妻が逮捕されるという事件が起きる。彼らの京都の別宅(本宅はアムステルダムにあった)でおこなわれたアシッド・パーティに警察が踏み込み、パーティに使用されたものや押入にあったコカイン、クラック、LSDなどの各種薬物が押収され、彼ら夫妻をはじめ、現場にいた彼らの友人である、モデル、カメラマン、ジャーナリスト、ミュージシャン、DJ、ダンサー、クラブ・プロデューサーなど合計9名が一度に検挙された。
このニュースは「ファー・イースト」ファンを驚かせたが、続く94年には、カヲルが万引きで留置場に入れられ、さらにこれに続いて、リョウが覚醒剤所持容疑で逮捕、投獄される。
この時、やたら事件続きのバンド、ファー・イーストに対して、芙苑晶はファー・イーストのFC会報で、次のようなコメントを述べている。
「今回のリョウの逮捕によって、ファー・イーストのメンバーは四人とも全員、晴れて前科者となったわけで、バンド・リーダーとしては、この上なく光栄に思います」
(芙苑晶。FC会報に発表された、リョウの逮捕に関するコメントより)
まるで体制に対する皮肉としか思えないコメントだが、しかし、ファンたちにさらに深い衝撃を与えたのは二年後の95年6月、市川カヲルの死である。
この事件はやがて、田嶋エリサとリョウの対立へと発展し、ひいては芙苑晶の二度目の脱退(今度はほんとうにやめてしまう)、そしてバンドの実質的な崩壊へとつながってゆくが、同時にプライベートの面では、田嶋エリサとの別離をも招いた。 |
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●恋人の死〜バンド解体 |
芙苑晶が田嶋エリサと離婚した時、二人は当時、ファンクラブ会報でこれを「もう一度、元の友達同士に戻るだけ。気が向いたらいつでも再婚する」という共同声明として発表した。市川カヲルの死後、憂鬱なムードに包まれていた「ファー・イースト」フリークたちへのリップサービスの意味合いもあったかもしれないが、しかしこのささやかな希望が実現することはなかった。
芙苑晶が通算5作目のソロ・アルバム『宇宙論(Cosmology)』(1998)制作中の97年の1月末、すでに別居していた田嶋エリサが、大阪の自宅の浴室で全裸で死亡しているのが発見されたというニュースが飛び込んできたのである。
二人はすでに離婚していて、これからは友人としてつき合っていこう、と話し合いを終えていた矢先のことだった。事実、96年の夏には、芙苑晶は田嶋エリサの2枚目のソロ・アルバムを、彼女にたのまれてプランしており、それは彼女がNYで学んだゴスペルを中心としたア・カペラ・アルバムになるはずだった、と言っている。
この当時、田嶋エリサは芙苑晶のNYのスタジオを訪ね、いくつかのトラックを録音していた。彼女の死の半年前のことであったといわれ、むろんこれらの幻のトラックは未だもって未発表である。
また、市川カヲルの死後、残ったバンドメンバー三人(田嶋エリサ、スペースDJリョウ、芙苑晶)が話し合い、新しいメンバーを加入させて「ファー・イースト」を立て直し、新たなテクノ・ユニットとして出発しようといったプランもあったらしい。
具体的な動きもあった。この年の夏、日本で行われ、のちの巨大レイヴ・パーティの先駆けとなったイヴェント「レインボー2000」に出演しようとして、芙苑晶とリョウがプロデューサーに直接交渉したりもしていた。
だがこれも、実現しなかった。肝心の中心人物であるダンサー(田嶋エリサ)が、直前になって倒れてしまったからだ。
97年5月、「ファー・イースト」最後のレイヴであり、田嶋エリサと市川カヲルを偲ぶ「バイバイ・イリーガル・レイヴ/ファー・イースト・アシッド・ハウス・クワルテット・サヨナラ・ナイト」が開かれた。
スペースDJリョウや、トランス・レイヴ・ドーターズ、マダム呪々などが出演したが、芙苑晶はこのイベントに多忙との理由で参加しなかったうえ、同年おこなわれたインタビューで、「ファー・イースト」について「ファー・イーストは、若い日の寄り道のようなもの。もっと早く解散すべきだった」と発言。
これが誤解され、一部のファンの不興を買った(しかし、前後の文脈を読むと、芙苑晶はファー・イーストの存在価値を誰よりも賞賛し、なおかつ客観的に評価していたことが分かる)。とくに田嶋エリサのファンたちから抗議の手紙が事務所に殺到した。
さらにのち、97年10月には、最後のアルバムと思われた『太陽黒点』が発表される。だがこれで終わりではなかった。残されたメンバー二人であるリョウと芙苑晶の間には、棚上げにされたままのアルバム『電気羽虫』をどう仕上げるかという、最後の問題が残されていた。
これに対する見解をめぐって二人の間には次第に亀裂が生じ、のちにリョウから晶への絶交宣言が引き起こされることになる。 |
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| ●最後のライブ、引退宣言と復帰 |
バンド解散から1年後の98年に発表されたソロ・アルバム『宇宙論(Cosmology)』が発表された時、田嶋エリサのヴォイスや、スペースDJリョウのターンテーブル・プレイが収録され、彼らの名がゲストとしてクレジットされていたことが、「ファー・イースト」ファンの間で話題になったことがあった。
このアルバムからシングルカットされ、のちにクラブヒットとなった名曲「Cosmology 5」は、「ファー・イースト」ファンのみならず、クラブやパーティ等でDJ がプレイしていたこともあり、日本でも聞いたことがあると思う人も多いはずだ。
これは実は、「ファー・イースト」の代表曲の一つであり、当時(1990〜92年頃か?)彼らのレイヴやクラブでのライブのアンコール等で演奏されていた、「Comet」という曲のリメイクとして作られた曲だった−−と言えば、「ファー・イースト」ファンの中には「あの曲か」と思う人もいるだろう。
「Comet」は、元々、「ファー・イースト」のために芙苑晶が書き下ろしたトランス・テクノ・ナンバーで、レイヴの時には、リードパートは市川カヲルがリリコーンで演奏していた。むろん、アレンジやキーなど、ことごとく違っているものの、原曲は同じなのである。
この曲は数奇な運命をたどった。「Comet」は、「ファー・イースト」ファンなら誰でも知っているというぐらいの代表曲であり、1992年当時、彼らの 3rd アルバム『無法的熱狂祭(Illegal Rave)』のためにかなりの時間をかけてレコーディングされながら、結局「ファー・イースト」のどのアルバムにも収録されることがなかった。
それは、スペースDJリョウが、「この曲はいいが、ポップだし、俺たちのアルバムのイメージに合わない」と言って、アルバムの選曲の段階になって却下してしまったためだ。
そんなわけで、「Comet」は、
ライブでは必ずと言っていいほど演奏されていた「ファー・イースト」の代表曲であったにもかかわらず、「ファー・イースト」のどのアルバムにも収録されなかった。
そしてオリジナルのレコーディングから約6年後の1998年、アレンジとキーを大幅に変え、芙苑晶のソロ作品として、芙苑晶の『宇宙論(Cosmology)』に「Cosmology 5」として収録された。そしてまた、
『宇宙論』は、結果的に、ファー・イースト・アシッド・ハウス・クワルテットのメンバーが参加した、事実上最後のアルバムとなった。
「ファー・イースト」解散から約1年後、そして『宇宙論(Cosmology)』発表の直後、1998年の春、芙苑晶は「うつ病」を理由に、アメリカの公式ファンジンのインタビューで引退を表明。オランダの田舎に引っ込んで、自給自足の生活に入ってしまった。
以後約二年間、彼は人ともほとんど会わず、音楽にも手をつけなかった。もちろん、世間の出来事なども、何も知らなかった。
皮肉なことに、この98年頃を境に、芙苑晶のソロ・アーティストとしての国際的人気と評価は、次第に上昇し始める。『宇宙論(Cosmology)』の初回プレスが異例の速さで売れた影響で、過去の数枚のソロ・アルバムや「ファー・イースト」のアルバムまでもが遡って売れ、デッドストックまでほとんど完売してしまったのだ。
ところがさらに皮肉なことには、当の本人は、そのことを全く知らなかった。しかも、NYのレーベルのオーナーが、財源を持ち逃げしてしまったため、アルバムが最も売れた98年以降のこの時期には、Nerve Nets Records(注:当時「ファー・イースト」や芙苑晶の音源を扱っていたNYの版元レーベル)からは、彼への印税は一銭も入らなかったという。
2000年、Nerve Nets Recordsが経営不振のため閉鎖される。このことを知らせるために昔の友人が自宅にたずねて来て、彼は初めて自分がアーティストとして世界に評価され始めたということを知ったという。
このような経緯を経て、わずかな期間で、「ファー・イースト」や芙苑晶の音源は、「幻の名盤」となってしまった。日本でもこの当時から2004年頃にかけて、それらの音源が中古市場でたまに出てくると、1万円以上から数万円という高価な額で取引されるのが目撃されたことがあった。
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| ●ソロ・アーティストとしての成功、「ファー・イースト」再評価のキッカケ |
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▲ 芙苑晶は、唯一の現役アーティストである。国際的なソロ活動で、のちに元「ファー・イースト」のメンバーの中では最も成功をおさめた他、バンド解散後、「ファー・イースト」再評価のキッカケを作った人物ともなった。
写真は2001年、NY(現在はワシントン州に移転)に設立した新しいレーベル Lavalamp Records でのインタビューより。 |
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冒頭にも述べたように、芙苑晶は元「ファー・イースト」メンバーの中で、のちに最も有名になった人物だ。現在(2005年時点)での一般的知名度で言えば、芙苑晶が飛び抜けて知名度があり、その次が田嶋エリサ、次がリョウ、最も無名なのが市川カヲルだろう。
しかしこの順位は、バンド活動時代のメンバーのイメージからするとむしろ意外なもので、「ファー・イースト」(の、とくにライブ・ステージにおいて)において最も派手だったのが田嶋エリサ、次がスペースDJリョウと市川カヲルが同位、キーボードの芙苑晶は最も目立たない存在だった。
「あのキーボードの人は …… 」という感じで、彼の名前を覚えていなかった人すらいたほどだ。
芙苑晶のファンはこれと逆の見方をしている人も多い。今では「芙苑晶って昔そんなことやっていたの?」と言う人が意外に多いのは事実だし、「ファー・イースト」のことを知っている人でも、音楽的には芙苑晶のソロ作品のほうが、「ファー・イースト」のアルバムよりも、はるかにスケールが大きく、芸術的価値もあり、芙苑晶にとっては「ファー・イースト」など二十代の「お遊び」にすぎなかったのではないか、といった見方である。
しかし彼自身は、どちらにもイエスとは答えていない。が、2001年の「復帰」時のインタビューでは、「僕のソロ活動とファー・イーストでの活動は、互いに影響を与え合っていたと思う」という発言が見られるのだ。
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「たしかにバンド活動が重荷になった時期があった。でもそれは一つは、バンド内に音楽以外のトラブルがあまりに多かったせいが大きいんだ」
「でも、ファー・イーストは僕にとっては偉大なバンドだったよ。僕のソロ活動との関係で言えば、ファー・イーストでの活動、とくに初期の仕事は、僕のソロ作品に多大な影響を与えたと思うし、その逆もまた真だったと思う。
もし僕がファー・イーストをやってなかったら、僕自身、今頃もっとスケール・ダウンしていたかもしれないってよく思うしね」
「たとえば一例を挙げると、僕の最初のソロ・アルバム(『燐光(Phosphorescence)』)にしても、ファー・イーストの1stのレコーディング・セッションから生まれたものだったし、そのあと僕のソロ・アルバムで出来ていったああいう一連の、映画的なスタイル(注: 「アシッド・シンフォニー(Acid Symphony)」の手法)にしても、やっぱりファー・イーストでの活動や曲作りが影響してたと思う」
「でも、94年以後ぐらいから、ソロ活動とバンド活動との差が、どんどん開いてきていた。僕のソロ・アルバムはすでにヨーロッパなんかで評価が出てきて、僕自身もアイディアがいっぱい湧いてきてた時期だったんだが、ファー・イーストのほうは、もう音楽どころじゃない、メンバー同士のいさかいとか、その他いっぱいトラブルが次々起きてきて、もう限界って感じになってしまったんだ」
(Lavalamp Records News Letter 1号・英語版インタビューより)
象徴的なのは、97年の「ファー・イースト」解散と、翌98年にリリースされた芙苑晶の5th ソロ・アルバム『宇宙論(Cosmology)』との関係だろう。世間に忘れ去られたアンダーグラウンド・レイヴ・バンドと、新しいジャンルを創り出したと評されるソロ・アーティスト。98年を境に、評価が引っくり返ってしまったのだ。
芙苑晶は、2001年、ニューヨーク・ブルックリン(現在はワシントン州に移転)に新しいレーベル「Lavalamp Records (ラヴァランプ・レコーズ)」を Hypnotic Twin (David Laurenz, DJ Third Eye)といった友人でもあるミュージシャンたちとともに設立。
このレーベルは、かつて Nerve Nets Records にあったファー・イーストをはじめとする全ての音源の著作権をすべて買い取り、将来メジャー・ディストリビューションから再発する予定があるとウェブ上で発表、ファンを驚かせた。
さらに2003年。芙苑晶は、復帰後初のソロ作品/6枚目のアルバム『年代記(Chronicle)』(2003)を発表する。これはなんと、オーケストラや合唱をフィーチャーしたクラシック寄りの超大作である。ここに至って、彼の作曲家としての評価は決定的なものになった。海外では雑誌やウェブなどにも絶賛レビューが相次ぎ、「21世紀のクラシック」とまで評された作品で、これによってまた、彼の過去のソロ作品や、「ファー・イースト」へも遡っての関心が、海外のレビューにしばしば見られた。
とくにソロ活動においては、たんなるテクノとか電子音楽といった枠を超え、プロジェクトごとに万華鏡のように変化する数々の試みとともに、実質的に新しいジャンルを創り出した感すらある芙苑晶のソロ・アーティストとしての仕事は、「ポップ・ミュージック界にあってケタ外れなスケールの大きさを感じさせるもの」と評価されるもので、今ではトランスからクラシックまで、ジャンル自体も多岐にわたっている。
リョウとは対照的に、後期には最もバンドをやめたがっていた芙苑晶だが、しかし彼こそはバンド解散後、このアンダーグラウンド・バンドへの再評価の機会を与えた人なのだ。
そもそも、今日みられる「ファー・イースト」評価再燃という現象は、芙苑晶のアーティストとしての成功があってこそのものである。言ってみれば、 こうした彼の一連の活動がなければ、私たちのこのサイト自体、成立しなかったとさえ言えるのだ。
また、興味深いところでは、現在「ファー・イースト」フォロワーとして知られ、そのレイヴ・スピリッツを受け継ぐ新世代のアーティストとして、新旧のファンから注目を集める日本のガールズDJ二人組・トランス・レイヴ・ドーターズ( Trance-Rave Daughters )をプロデュースしデビューさせたのも芙苑晶だ。
さらに、そのドーターズとのコラボレーション・アルバムで、芙苑晶の80-90年代の代表曲/クラブ・ヒッツを集めた『恍惚的宇宙論/トランス・レイヴ・コスモロジー(Trance-Rave Cosmology)』 (2007)には、「ファー・イースト」の代表曲である、『Ibiza Breakfast(イビザで朝食を)』、『Kama Sutra Part 4 (カーマ・スートラ/愛の性典 パート4)』が収録され、バンド初のメジャー発売(しかもこのアルバムは、世界に先駆けての日本先行発売で、Amazonで販売されることになった)となった。
また、「ファー・イースト」ファンにとっては興味深いことに、このアルバムのセッションのため、彼は、2007年春、スペースDJリョウと10年ぶりに再会。リョウのロンドンの自宅を訪れ、一週間にわたり滞在。二人はホームスタジオで旧作のリミックス・セッションをした。
リョウ自身は今回のセッションに関し、「気まぐれ参加」とのことで、「シーンに復帰するつもりはない」と回答したものの、とにかく元・メンバー同士の再会と「ファー・イースト」音源のリミックスの仕事という二つが同時に起きたわけで、ファンにとっては久々のホットニュースとなった。奇しくもバンド解散からちょうど10年目にあたる年の出来事であった。
そんな芙苑晶は、「ファー・イースト」の二人のメンバーが死に、残る一人が引退した現在、事実上現役で活動を続けている唯一のアーティストとして、新旧の「ファー・イースト」ファンの注目を集める存在でもある。
芙苑晶は、9・11(ツインタワービル破壊テロ事件)以後、NYの街に見切りをつけ、2003年以降は仲間とともにワシントンへその拠点を移して、いまも音楽活動を続けている。 |
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芙苑晶の、「ファー・イースト」時代の発言に、次のようなものがある。
「僕らがトランスのような音楽を発明したという説は、間違いではないが、100パーセント正しいわけでもない。
トランスのような音楽は、太古の昔からあったし、そして今もあるし、これからも、未来永劫になくならない。
なぜならそれは、なぜ音楽がこの世にあるのかという問いに対応しているからだ」
「真の芸術には、秘密がある。
今の人間は、なんでもかんでも暴露することが好きだが、この秘密まで暴露することはできない。
また、暴露する必要もない。
秘密は、秘密のままでいいのだ
」
「人間ってのは、誰もがほんとは、この世の常識とか理性で決められた世界にうんざりしていて、そこから脱出したいっていう強烈な願望があるんだと思う。
ファー・イーストがウケたのは、音楽にもレイヴにも、そういうものがハッキリあったから。そういうものは、計算ずくで作られたコマーシャリズムの音楽には、絶対作り出せないものだから」
「僕らにファンへのメッセージがあるとしたら、『こう生きろ』とか、そんなことじゃない。
『みんなそれぞれに好き勝手に、自由に生きてほしい』っていうこと。
そのために人を解放すること、それを僕らはやろうとしている」
「いつか、一部の大人たちが言ったように、
僕らはべつに、『世の中と折り合いのつかない反体制派の若者』などではない。
僕らは四人とも、ある分野での特殊な技能を持っているという点を除けば、
日本のどこにでもいるような、ごく平凡な、四人の若者たちに過ぎない。
だから、僕らが変わっていると言うよりは、
今の体制派の大人たちが、
僕らのようなタイプの若い世代の人間とどこまでも折り合いがつかないものだから、
『ファー・イーストは反体制派の若者たち』だと、勝手に思いこみたがっているだけなのだ」
「表面的に見えるものがどうあれ、今の世の中を覆っているのは、悲しみと怒りと不信感だって気がする。
僕らが表現しようとしたのは、その正反対のもの、つまり、悦びとエクスタシーと一体感だった。
それがファー・イーストの良かったところだと思うね」
「ライト兄弟が空を飛んだように、誰もそんなことは不可能だと思っていたことも、
やってみれば、いつかは実現するかもしれない。
だから、子供の頃、自分がこうなりたいとか、
世界がこうだったらいいなって素朴に空想したことを、絶対にあきらめちゃいけない。
一番愚かなのは、最初からあきらめて、何もしないことだ
」
「一人で歩くこと。誰の言うことにも耳を貸さないこと」
「僕らのやったことが、成功か失敗かなど、まだ誰にも決められない。
もっと長い長い歳月が経って初めて、答が出るのかもしれない」
「もしもいつか、僕が死んで、地獄に行って、
閻魔大王の前で
『お前は生前、何をしてきたんだ?』って聞かれたら、
僕は二つだけ言おうと思ってる。
『シンセ使って音楽作ってきました』、
それから、
『ファー・イースト・アシッド・ハウス・クワルテットをやってきました』って」
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