Far East Acid House Quartet - ファー・イースト・アシッド・ハウス・クワルテット
 
ファー・イースト・アシッド・ハウス・クワルテット( Far East Acid House Quartet )ファンサイト/資料館
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ファー・イースト・アシッド・ハウス・クワルテット ( Far East Acid House Quartet )

 

田嶋エリサ - Elisa Tajima
▲ 田嶋エリサは「ファー・イースト」のイメージ・リーダーにしてフロント・ウーマンだった。そのためバンド活動当時は、彼女がバンド・リーダーだと思いこんでいる人が多かったが、これは誤り。
● 【田嶋エリサ】 Elisa Tajima 
  【アンダーグラウンド・レイヴの巫女】
(1966.03.09〜97.01.30 ?)

ダンサー。「ファー・イースト・アシッド・ハウス・クワルテット」メンバーとして在籍、フロント・ウーマン、イメージ・リーダーとして活動。通称「エリ」。

1966年3月9日横浜に生まれる。本名は田嶋絵里沙。日本人の父と、ポルトガル人の母を持つ混血(日葡混血)である。
横浜米軍基地の近くで育ち、幼少期よりクラシック・バレエ、11才よりジャズ・ダンスを学んだが、のちに暗黒舞踏やメレディス・モンクなどの影響も受け、さらには十代半ばでファッションモデル、ストリップ・ダンサーなども経験。これらの多岐にわたる経験が、のちの彼女のダンサーとしての独自のスタイルを形作った。

 
●病弱で内気な少女から、サイケ・ロック・ファンへ
田嶋エリサはメンバーの中では唯一、純粋なミュージシャンではない。パーカションや民族楽器(シタール、その他)を演奏し、さらにはシンセサイザーやテルミンまでマスターして数々の楽器を弾きこなした器用な彼女ではあったが、本来あくまで彼女はダンサーであった。そしてそのことが、「ファー・イースト」を特異なバンドにしていたとも言える。

また彼女は、「ファー・イースト」のビジュアル・イメージの面で大きく貢献した。ライヴでは常にフロント(ロックバンドで言うとヴォーカルの位置)で踊り、オーディエンスの視線は、彼女(と、しばしばその背景に流れるビデオ・プロジェクターの映像)に集まっていた。クラブや野外のパーティでは、彼女の名を呼ぶ歓声が、圧倒的に大きかった。
さらに、アルバム・ジャケットにも何度か登場したり、当時彼らが作っていた限定版のポスター(おもにレイヴに来た人だけが屋台で買えるプレミア物)にも、アイドルのように登場したり。ダンサーだけあって「自己演出」にも長けていたので、新聞や雑誌などのインタビューでも、他の三人が来れない時は、彼女が一人でスポークスマンをつとめることがあった。

言ってみればフロント・ウーマンで、当然ながらバンド時代は彼女が最も人気者。当時は「ファー・イースト」 = 「田嶋エリサ」というイメージすらあったほど、いわば「ファー・イースト」の花形スターだった。
一方、ライヴでは風変わりなパフォーマンスで有名で、踊りながらだんだん服を引き裂いたりして脱いでいき、鶏を殺して生き血を浴びたりするといった、見る人の度肝を抜くような神秘的で過激なアクションの数々でも話題になっていた。「ファー・イースト」の原始宗教的・呪術的なイメージを定着させ、また、彼らのレイヴをエキサイティングかつ個性的なものにしていたのは、彼女の貢献度が最も大きいだろう。

「ファー・イースト」のライブでは、あのハードでクレイジーな即興ダンスで知られた田嶋エリサだが、意外なことに、生まれた頃は体が丈夫な子供ではなかった。
年中何かの病気にかかり、すぐに熱を出して寝込む、虚弱で神経質な娘を心配した母が、「体が丈夫になるだろうと思って」習わせたのがクラシック・バレエだったのだ。

そのため彼女の両親は、娘がプロのダンサーになろうとは思ってもみなかったらしい。しかしダンスを始めたお陰で虚弱体質は見事に克服され、彼女は風邪一つ引いたことのない人一倍丈夫な体に成長していった。

彼女は「ファー・イースト」のメンバーの中では、比較的恵まれた環境で育った人である。プロのカメラマンの父(日本人)と、元・ファッションモデルだった母(ポルトガル人)の間に生まれた一人っ子として、幼少期は横浜で、小学校はサンフランシスコで、休暇は祖母のいるフランスのリヨンで過ごした彼女は、四カ国語を喋れる国際人でもあった。

サラブレッド的な出自を持つ彼女は、両親からそれぞれに受け継いだユニークな特徴ないし影響が、少女時代にすでに現れ始めていた。ダンスを習い始めるとたちまち上達し、教師に才能があることを見抜かれたが、クラシックよりはモダンが向いていると言われ、のちにジャズ・ダンスやモダン・ダンスを学んだこともあった。

音楽にも縁があった。ダンサーとしてのイメージが強すぎて、意外に思えるかもしれないが、音楽好きだった両親は彼女が小さい頃、最初は娘を音楽家にしたいと思っていた。そこでクラシック・ピアノを習わせるが、長続きしなかった。根気がなかったのだ。

しかしそのため、彼女はうろ覚えで少しだけ鍵盤が弾けた。「ファー・イースト」のプロモ・ビデオで、ウーリッツッアー(エレクトリック・キーボード)などを弾いている姿が見られる。素人にしてはそこそこ上手いのだが、人前で大っぴらに弾きたがらなかったのは、芙苑晶のようなプロのキーボード奏者がいたからだろう。

「ダンサーを志してはいたものの、どこか内気で、陰のある」少女だったという彼女だが、感性は豊かであり、いくつかのことに興味を持っていた。そのうちの一つが1960年代のヒッピー文化やサイケデリック・ロックであった。
とくに、西海岸で育った頃、父からの影響で、60-70年代のヒッピー・ロックにさらに熱中するようになっていた彼女は、デッドヘッドと呼ばれる、グレイトフル・デッドの「追っかけ」的ファンであった。小学校の終わり頃、グレイトフル・デッドの野外ライブを見たりしている。

「サンフランシスコに住んでた時、もうデッドヘッドだったのね。デッドがまだ60年代末の感じを引きずってやってて、アメリカ人の友達と一緒に野外のライヴ見に行って、踊ってね。その時、ミュージシャンっていいなあって。ダンサーじゃここまで客をインヴォルヴできないよなって・・・。
  だからまさか、大人になってから自分が同じようなことやるなんて、夢にも思ってなかった」
(田嶋エリサ。インタビューより)

当時のエリは、自分の将来に明確なヴィジョンを持っていたわけではなかった。ただ、子供の頃からひたすらダンス(とくにジャズ・ダンス)が好きで、教師にも才能があると言われていたので、なんとなく「将来、ダンサーになれたらいいなと漠然と思っていた」。彼女の十代のアイドルは、モダン・ダンスの開祖とも呼ばれるイサドラ・ダンカンであった。
 
●竹の子族、ディスコ・ミュージック

1978年頃、日本に帰国。中学校に通い始めてからしばらくは、友達も多くでき、幸福な日々を送っていた。帰国子女ということもあって、内気なところはあるが、成績は比較的良く、中学時代の前半までは、クラスでも上位に入っていた。とくにスポーツは万能で、陸上部の選手だったこともある。のちに両親が別居することを除けば、なかなか恵まれた家庭環境だと言えるだろう。

中学時代、田嶋エリサが熱中したものは、いくつかあった。まず一つは、彼女の思春期にあたる70年代の後半から80年代初期、世界的に大流行だったディスコ・ミュージックである。
彼女はとくに、エミリー・スター・エクスプロージョン、アバ、ジンギスカン、ボニーMなどのレコードが大好きで、お小遣いをもらうたびレコード店に走るというほどの熱狂ぶり。早くも、これらのシングル・レコードをコレクションするようになっていた(のちの、ファー・イースト現役時代にも、「70年代後半-80年代ディスコ・ミュージックが好きで、今でもよく聴いている」と語っている)。

一方、中学時代、原宿歩行者天国(通称「ホコ天」)の「竹の子族」のメンバーとして踊っていたこともある。竹の子族と言っても、今の若い世代の人には馴染みがないかもしれないが、竹の子族とは、1970年代末期から80年代前半にかけて流行した、原宿は代々木公園横に設けられたホコ天でラジカセを囲み、ディスコ・ミュージックに合わせて独特の「竹の子族ダンス」を踊る若者たち(おもに当時の中学・高校生)のグループである。
まるで「アラビアン・ナイト」から飛び出してきたような、派手な原色と奇抜で自由奔放なデザインの衣装を来た少年少女たちが、ホコ天で踊るさまは、日本に来て間もない田嶋エリサの関心を惹いた。エリはすぐにこのグループに飛び込み、メンバーたちと友達になり、ここでも人気者になる。同じ竹の子族出身で、のちに俳優となる沖田浩之(エリよりも三才年上)とも友人であったことがあった。

片や、自宅の稽古部屋では、ジャズ・ダンスの練習のかたわら、大好きなグレイトフル・デッドなどのサイケデリック・ロック、それにディスコ・ミュージックなどのLP(CDではない)をかけて、自分で創作したダンスを踊るようになっていた。のちに「ファー・イースト」でのあの独特なダンスのアイディアは、実はすでにこのころに生まれていたのだと、彼女はのちに語っている。

また、少女時代に接した、「グレイトフル・デッドの野外ライブのイメージや、70年代ディスコや、竹の子族のイメージなどが、のちのファー・イーストの野外レイヴに投影されていると思う」と、のちのインタビューで語っている。
とくに彼女は、竹の子族を「みんなが公平に楽しめる、オープン・マインドの青空ディスコ」だと感じた。すでにこの時点で、「竹の子族こそ、野外レイヴの元祖」と見ていたのは、興味深いところである。

 
●いじめ、学校脱落

そんな彼女の運命が激変するのは、中学時代の後半である。いくつかの理由があったが、一つは、この時期すでに崩壊の兆しを見せていた彼女の家庭環境であった。両親が互いに愛人を作って別居、父がサンフランシスコ、母が横浜にそれぞれ住み、二人の間を行き交ううちに、エリの中に次第に芽生えていったのは、人間不信の思いだった。

もう一つの問題は---これが最も深刻な問題だったのだが、彼女は、中二の二学期後半頃から、混血の帰国子女であること、それゆえに「目立っているから」という理由で、凄まじい「いじめ」に遭っていたのだ。
最初は、ごく少数の者たちからの、個人攻撃だった。ある日、同じクラスの番長格と見なされる、ヨーコという名の不良少女(仮名)が、エリに目を付け、体育館の裏に呼び出す。少女はエリが、「竹の子族で踊って目立っている」のが気に入らない、と言った。

「気がつくと、いつのまにか、彼女の手下である不良少女ら数名に囲まれていた。私は、三人の少女に押さえつけられ、ハサミで髪を切られ、手に煙草を押しつけられ、腹や背中を何度も殴る蹴るされた。
血を吐きながらうずくまっている私に、ヨーコは、
『これ以上いい気になりやがったら、整形したって二目と見られない顔にしてやっからな』
そんな捨てゼリフを残して、他の三人とともに去っていった。」
(自伝エッセイより)

次の日、エリは何食わぬ顔で再び学校へ行ったが、しかし、この日を境に、不良グループは、次第に彼女を執拗に追い回すようになる。エリは最初、不良少女グループを無視していたが、今度は無視するだけでは済まなくなった。

「私はまた、学校へ行くのが恐ろしくなった。いったん沈静化したように見えたクラスのいじめが、また突然、復活し始めたのだ。
ヨーコはもう、直接的に私に手出しをすることは、あまりなかった。その代わり、私以外のクラス全員を、私のいない時に脅し、クラスメートたちをけしかけて、やらせているらしかった。
しかも今度は、いったい誰が犯人なのか、まったく見当もつかないような陰険な方法が中心になった。私の見ていないすきに、どこかのタイミングで、誰かが、私の持ち物を焼却炉に捨てたり、私の机の引き出しの中に腐った食べ物やネズミの死骸を入れたりしていた。 」
(自伝エッセイより)

それまで、親友だと思っていたクラスメートたちまでが加勢して、クラス総出でエリ一人をターゲットに「いじめ」を繰り返す日々が始まる。体育の授業では、体操服を隠され、切り裂かれて捨てられ、彼女だけが制服で運動場を走らされる。エリは沈黙を守り通していたが、他の生徒の腕時計が彼女の鞄の中にいつのまにか入れられていて、先生にまで泥棒呼ばわりされた時は、ほんとうに泣き出してしまった。

「私じゃない・・・! そう、思いきり、叫びたかった。
泣きながら、そっと見ると、かつて友達だと思っていたクラスメートたちが、にやにや笑っているのが視界に入ってきて、私は胸がむかむかした。
今では、教室中の生徒たち全員が、全員私の敵に見えていた。
こんなことが毎日のように続いたら、誰でも神経がまいってしまう。私も、例外ではなかった」

「理由のあることだったら、納得できるが、私がなぜ、そんなひどいことをされなければならないのか、全く見当もつかなかった。
自分で言うのも僭越だが、私は、気さくに人とつき合うし、情もあって、友達思いである。
曲がったこと、ずるいことが大嫌いで、正義感だって強い。クラスの中で、いじめられていた被害者の子を、私が助けてあげたことさえある。
だから、なぜいじめられるのか、私にはわからなかった。
もし、私が誰かに悪いことをしたのなら、いじめられても、あきらめもつく。
だが、私は、自分から人に意地悪など、ただの一度もした覚えがない。
たしかに、グレていた頃は、悪い人間だったが、それでも私は、自分が攻撃された時の、正当防衛や反撃以外は、故意に人を傷つけた覚えはない。
ましてやこの、中学時代など、全くなぜ、私がそんな目に遭わねばならないのか、見当もつかなかった。 」
(自伝エッセイより)

彼女は次第に、学校をズル休みするようになり始め、たった一人の家族であるエリの母は、娘の不登校を責め立てるようになる。エリは「とうとうたまりかねて、学校での出来事を、母に訴えた」。母の顔色が変わった。母は担任教師に文句を言いに行く。だが、この母の行動がさらにエリを追いつめる結果となった。

「次の日、恐る恐る遅刻気味に行ってみると、案の定、教室の、私の机は、ナイフで滅茶苦茶に傷つけられ、マジックインキで落書きがされていた」

「私は、怒りで足が震えた。机の上の、悪意に満ちた言葉の数々を見て、じっと立ちすくんでいると、紙くずや消しゴムや、黒板消しやチョークや、その他わけのわからないゴミが、私一人をめがけていっせいに、凄まじい野次といっしょに飛んできた。
ぶるぶる震えながら、クラスメートたちを振り向くと、ヨーコが立っていた。先生がまだ来ていないのをいいことに、朝から教室で煙草を吸っていたヨーコは、今度は私を教室の隅に追いつめ、首筋に煙草の火を押しつけた。私の悲鳴は、ヨーコの部下の掌に押さえ込まれ、吸い取られた。
ヨーコが、『脱がせろ』と命令した。部下たちが、私の制服をカッターナイフで縦横に引き裂く。髪の毛をつかみ、腹を小突き、靴と靴下を無理矢理脱がせて、教室の窓の外へ投げ捨てた」

「どうやって逃げたのか、覚えていない。私は滅茶苦茶に暴れて、どうにか彼女たちの手を逃れた。そのまま、一時間目の授業さえ受けないまま、にやにや笑っているクラスメートたちに背を向けると、裸足のまま、教室を駆け足で出て行った。遠くから、始業のベルが聴こえた」
(自伝エッセイより)

 
●スケ番、暴走族、「極悪べっぴんのエリ姐さん」
このあとエリが辿った運命の変転は、あまりにも異常なものだった。中二の三学期は、ほとんど不登校。中学三年に上がって直後、どうにか転校手続きをすることができた。 中三の五月から、彼女の校区のもう一つ隣にあった中学校へ、越境入学したのである。もちろん、「いじめ」から逃れるための苦肉の策であった。
新しい学校では、うまく行きそうに思えたが、ところがここでも、また同じようなことが起きた。これは、あとでわかったことだが、エリの前いた中学は、隣の校区だったので、新しい中学にも、例の不良少女グループの顔見知りがいて、「田嶋がそっちに転校したから、あとはよろしく」という、「連絡」が、あらかじめ仲間たちに行っていたのである。

エリはとうとう、学校へ行かなくなってしまった。母に嘘をつき、学校と反対方向へ歩き、コインロッカーで私服に着替えて、繁華街で遊んだり、仲間の溜まり場のところへ行ってシンナーを吸ったりなどといった毎日を送るようになる。
中三の夏休み、エリは、竹の子族の仲間たちと海に遊びに行き、四才年上の少年と恋に落ちる。彼は、高校を中退し、暴走族のリーダーをやっていた。

「こうして私は、中三の夏休みを境に、完全な変貌を遂げた。二学期が始まった時、私は、髪を伸ばして茶色く染め、病人のような濃い化粧をし、長いスカートを引きずって、白い上履きを踏みつぶして学校の廊下を闊歩し始めた。
東西南北どこから見ても不良少女という姿で学校に現れた私を見て、クラスのみんながビビッているのが、可笑しかった。こいつらは全員、どうしようもないバカだ、と思った。一学期、私が転校してきてまもない頃は、外見だけで私に偏見を持ち、みんなでいじめをやっていた。ところが今、二学期が始まって、変貌した私が出てきたとたん、怯えきって、口も利けないでいるではないか。
そうやって、外見だけで人間を判断するような、愚かなクラスメートたち。私は彼らに、憐れみすら感じていた」
(自伝エッセイより)

こうして、中三の後半からエリは、とつぜん、手が付けられないほど、荒れ始める。毒々しい濃い化粧、茶色く染めた長い髪、改造した制服を着て、竹刀を持って廊下を練り歩く。勉強よりも喧嘩が得意になり、授業中に煙草を吸い、教師に悪態をついて授業を妨害し、教室を大混乱に陥れる常習犯に変貌した。
当然、学校内での彼女の地位は大逆転する。中三の二学期以降、彼女はあっという間に、不良グループのトップにのし上がってしまった。元々、背が高く、ハーフで目立つ容貌の彼女は、学校でトップの不良、つまり俗に言う「スケ番」へと、短期間に大変身を遂げたのだ。
校内の不良たちはエリを、「極悪べっぴんのエリ姐さん」の名で崇拝するようになり、当時、エリの名を冠したステッカーまで作られたという。片や、ふつうの生徒や教師たちはエリを恐れて、口も利けない。エリは、校内の仲間をけしかけて、かつて自分をいじめたクラスメートたちへの復讐を始める。エリの変貌によって、弱者と強者の立場が逆転したのである。

そんな日々の中で、たまに家に帰っても、母との諍いが絶えない。彼女は母を殴る蹴るし、母の財布から札束を乱暴にむしり取って、夜の繁華街へ繰り出した。
そしてとうとう、中三の秋に家出。暴走族のリーダーの少年のアパートに転がり込んで、同棲生活を始める。夜遊びやバイクや覚醒剤が、エリの新しい「生活」になった。
しかしそれでも飽きたらず、自分の母をすら呪って、暴走族の仲間たちとともに、夜中に自宅をバイクで囲み、爆竹を鳴らした。窃盗、恐喝、傷害、リンチと、まるで世の中そのものに復讐するかのように、15才のエリは、仲間たちとつるんで、日夜、ありとあらゆる凶行を繰り返していた。

エリは、非行の道を突き進み、とうとう高校へすら行かなかった(過去の記事には、「高校中退」と記されているプロフィールがしばしばあるが、これは誤りである)。それどころか、「実質的には、中学中退に等しい」とエリは言う。「義務教育だから、形だけは卒業させてくれるが、それはようするに、学校としては、私のような生徒に来て欲しくないからなのだ」と---。

「当時の私にとって、家族や学校や警察をはじめとする『世間』は全て敵であって、憎み続けるべき対象だったのだ。(中略)
どんなに悪いことをしていようとも、私たち仲間は、たしかに、悪という名の友情で結ばれていたのである」

「今や私は、新しい居場所を見い出しつつあった。どこにも居場所がなく、野良猫のように繁華街をホッツキ歩くしか能のなかった十四のみじめな私は、わずか二年弱ほどで、族の王女様にまで昇格したのだ」
(自伝エッセイより)

エリは、16才の時に警察に逮捕され、女子少年院へ入れられている。事件名は、覚醒剤取締法違反と傷害罪である。
彼女の入っていた暴走族が、埠頭で他の暴走族と大乱闘をし、そのさい、暴走族のリーダーだった自分の恋人の少年をかばおうとして、彼女は鉄パイプで相手の少年を殴ったのだ。被害者は全治二ヶ月の重傷を負い、さらに、逮捕された時には彼女は、覚醒剤を所持していた。彼女にとって初恋の人でもあったというこの少年と別れることになったのも、この事件がきっかけだった。

「鑑別所の職員に連れ添われて、面接室に入った時、ジャージ姿の私は、痩せ細り、骨と皮だけのような体になっていた。十六才の少女には、とても見えなかったと思う。しかも、女のくせに、百七十四センチという長身だから、はたから見れば、よけいに異様な姿だったろう」
(自伝エッセイより)
 
●女子少年院、放浪生活、どん底
女子少年院に入れられる少女たちの多くがそうであるように、エリもまた、入院当初は、かなり反抗的な生徒だった。スケ番ノリ、暴走族ノリがいつまでも抜けず、教官たちに何を言われても反逆し続け、何度となく反省室送りにされる。

そんなある日、とうとうエリは、女子少年院をも脱走する。真夜中に教官の目を盗んで扉をこじ開け、女子少年院の制服であるジャージ姿のまま、鉄の柵を越えて夜の街へ逃げ出してしまう。自動車を盗んで国道を走り、ガソリンがなくなったので空き地に乗り捨てて、そこからは徒歩で歩いた。しかし、ポンコツ自動車と徒歩では大した距離の脱走は出来ず、翌日の夕方、公園のベンチで眠っているところを、白バイの警官に補導されてしまう。

万事こんな調子で、まるで反省のかけらもないかのような札付きの非行少女であり、「人間不信の塊」だった16才のエリの心を、初めて開かせた、一人の大人がいた。自伝エッセイによると、「唯一、信頼できる大人」に彼女は出会うことができた、と言っている。これが、彼女の担当教官で、恩師でもある、藤田先生(仮名)という女性教官である。
先生は、非行の限りを尽くし、すっかり気持ちがひねくれて、当時、世の中の人間の全てに復讐を誓っていたという16才のエリを、粘り強く説得し続ける。何度となく執拗に繰り返される対話の中で、エリは、あることに気がついた。

「私はその時、あることに気がついて、思わずこう言っていた。
『え? もしかして、私、今までずっと、他人じゃなくて、自分で自分を傷つけてた・・・?』
と言うと、先生は、しっかりうなずいて、『そのとおり』と言った。
私は、一瞬、目の前が真っ白になった。言われてみればそのとおりだ。でも、なぜそんな単純なことに、なぜ気づかなかったんだろう。私は、自分で自分を傷つけ、自分で自分の人生を破滅に追いやったんだ――。 」
(自伝エッセイより)

女子少年院での日々は、エリを変えた一つのきっかけとなった。退院する頃には、彼女は、恩師である先生とも「二度と自分を傷つけない。自分のために生きる」と約束をし、もう一度人生をやり直そうという気持ちになっていた。

こうして、女子少年院を出て以後、一時は更生するため、小さな建設会社の事務所で経理担当として働いていたが、長続きせず、数々のバイトを転々とするようになる。パン屋、クリーニング屋、ファースト・フードの店、ガソリンスタンド、レコード店の店員・・・。しかし、どれも彼女には続かない。続けようと努力しても、しばしば「女子少年院あがり」という経歴が邪魔をして、職場に長くは居られない。数ある職業の中で、せいぜい花屋のバイトぐらいしか、自分には出来ないように思う。
学歴や肩書きばかりを重視するこの社会がバカらしくなり、また、自暴自棄になった彼女は、再び非行の世界へ転落してしまう。

バイト先で知り合った一人の少女が、レディース・チーム(女の子だけの暴走族チーム)を結成しようと誘いかける。エリの脳裏に、女子少年院の先生との堅い約束がちらついたが、せっかく仲直りした母との関係も再びこじれ始めていた矢先でもあり、レディース・チームは彼女のプライドを擽る、居心地の良い場所でもあった。
そうこうするうち、今度は新しい恋人が出来、同棲生活を始める。今度の恋人は、彼女より一回り年上の、ドラッグの密売人であった。表向きは地元でファッション・モデルのアルバイトなどをして、優雅で平穏な生活に見えたが、気がついたら、エリはいつの間にか、わずか17才で麻薬中毒に陥っていた。

こんな関係が長続きするはずはなく、同棲生活はわずか半年で破綻。母や友達にも見捨てられた彼女は、住所不定・無職の放浪生活を送る。麻薬中毒、ドラッグの売人、ホームレスというどん底の生活の果てに、自殺未遂も経験。数奇な浮沈変転を繰り返す青春を送っていた。

しかし、今度という今度は、自ら落ち込んだ悪の道で、再起不能に思われたが、18才になった頃、彼女は、「このままドラッグに溺れて死ぬか、それとも生き延びるか」と自分自身に問い直す。そしてこの時、周囲の協力も得て、ようやく本気になって、必死で立ち直ろうとした。それまでの自堕落で破滅的な生活に訣別すべく、荒療治方式でリハビリの努力を繰り返し、ようやくほんとうに更生することが出来たのだった。

だが、どうにか立ち直ったものの、仕事はない。食い扶持としてのアルバイトぐらいどうにかなるとしても、麻薬や放蕩生活に慣らされた体には、不安の影が染みついている。自己嫌悪にまみれ、苛立つ日々の中で、エリは再び、じつに何年ぶりかで、突然、踊りたい衝動に駆られる。
ある日、横浜の、夜の公園を散歩していた深夜のこと。エリはわけもわからず、公園の中で立ち止まり、踊り始めた。

「その調子で、三十分、いや、もしかしたら、一時間、あるいは二時間以上は、踊り続けていただろうか。
最後のターンを終えた時、私は全身、汗ぐっしょりになっていた。
まだ麻薬中毒の後遺症が治りきっていない体だから、いくらでも無限に汗が出てくる。まるで、リハビリ・ダンスだ。
私は、ハアハアと、荒い息を吐きながら、その場にうずくまった。空を見上げた。
お月さまは、まだじっと、私を見てくれていた」

「私は、体の震えが、止まらなかった。
もう一度、もう一度だけでいい。ダンスにすがりつこうと思った。
踊っている時は、人生の苦痛を忘れていられる。
狂いかけた私を、まともにしてくれるもの、それは、踊ること以外には、ない---。」
(自伝エッセイより)

 
●再出発---暗黒舞踏、関西への移住、「淫心」との出会い

この日の神秘的な出来事がきっかけで、エリは再び、ダンサーを志す。しかし、同時にそれは、険しい道のりの始まりでもあった。
自分は、何年間も非行の日々に明け暮れ、ダンスのレッスンをサボってきている。おまけに、長年にわたる不摂生や麻薬の常用で蝕まれた若い肉体は、ダンスを志すにしては、あまりに不利だ---。
彼女は、絶望と希望、情熱と諦観の間を揺れ動きながらも、必死にダンスにすがりつこうとした。

また、日本独自の舞踏芸術である「暗黒舞踏」の公演を偶然見て、その神秘的世界にも衝撃を受け、ある著名な舞踏家に弟子入りしたのもこの頃のことだった。「型」や「ルール」を重んじる西洋のダンスとは正反対の、自由で流動的、前衛的な暗黒舞踏は、西洋のダンスを学んできたエリには、強烈で新鮮なものだった。訳あってわずか数ヶ月でやめてしまったというが、暗黒舞踏のスタイル自体よりも「考え方」が、まだ少女だった田嶋エリサのダンサーとしての美学に秘かに影響を及ぼした。
暗黒舞踏には、「肉体を超越する」という考え方がある。そのために、肉体の虚栄心や恥を捨て、魂を裸にして踊るという考え方で、これは西洋のダンスにはない考え方である。
のちのファー・イーストのライブでは、クライマックスになると服を脱いで半裸で激しく踊るレイヴ・ダンスで知られたエリも、この当時はまだまだ内気で恥ずかしがりで、人前で脱いで踊るなど考えられもしなかった。が、この時初めて、人前で白塗りの裸で踊り、虚栄心を克服できたと感じる。

19才を目前にしたエリは、ダンサーとして、自分独自の新しいダンス・スタイルを創ることができないかという野心とともに、「自分だけの生き方」を模索したいと考え始めていた。

「このころになると、私は、うまい具合に中間の道がないかと、あれこれ考え始めていた。つまり、このくだらない世の中に合わせてマジメな体制派人間になって生きるのでもなく、かといって、不良少女として世の中に反逆して破滅的な道をたどるのでもなく、もっとクールでヒップな生き方がないか、と考えるようになっていたのだ。
これは、一番狭き道ではあった。 だが、それだけの価値がある選択だともわかっていた」

「ある日、私は、都心の交差点に立って、信号待ちをしながら、行き交う人の流れをぼんやり見ていた。
たしかに、人が言うように、日本は平和でお金持ちで、恵まれた良い国なのだろうと思った。
だけど、私は不満を感じた。
誰もが、なんの根拠もなく、どこかの他人の生き方をマネして生きているように見えたのだ。
私は、誰かのマネをするのではなく、自分の直感だけを頼りに、自分が正しいと思う生き方をしよう、と思った。
たとえ失敗の繰り返しでも良いから、自分だけのオリジナルな生き方を見つければ、後悔せずに死ねるだろう、と思った」
(自伝エッセイより)

こうして再出発を決意した彼女は、このころ、たまたま遊びに行った関西という土地がいたく気に入ってしまう。19才の時であった。

「かつて谷崎潤一郎がなぜ関西に移り住み、ああも関西という場所を褒め称えたのか、私にはわかった。
でも、音楽やダンスと同じ。わかる人と、わからない人がいる。言葉で伝えられるものじゃない」
(エッセイより)

横浜に住む若者の多くが都心部へ移住するとしたら、多くの場合は東京である。エリも最初は、そう考えていた。が、あえて関西を選んだのは、エリ自身の好みもあったが、地元の不良仲間たちと縁を絶つ意味もあったらしい。
そして、二度目の大阪行きで知り合った一人の少女の家に泊めてもらい、彼女は関西への移住を決意する。この少女は土井昌美といい、のちの「ファー・イースト」のマネージャーになった人だった。

「大好きな植物と毎日話が出来る」花屋でのアルバイトをしながらの新しい土地での生活と並行して、元祖トラヴェラー少女でもあった昌美とともに気ままに旅したインドやチベットは、田嶋エリサの忘れがたい「第二の故郷」となっていった。それは彼女の過去の傷を癒しただけでなく、新しい世界へ目を開かせるきっかけとなった。

インドの神秘思想や宗教の影響は、のちの「ファー・イースト」のアルバムやステージに影を落とすことになる。他のメンバーたちがチベット密教やインドに興味を持つようになったのも、言うまでもなく、田嶋エリサからの影響だった。

研究熱心な性格でも知られた田嶋エリサだが、 いったんプロとしてやっていくと決めた彼女は、それ以後、修行にも似たさまざまな厳しい試みを己に課すようになった。長年中断していたダンスのレッスンを再開。本格的にプロのダンサーを志し、暗中模索の日々が始まった。
ディスコや、ロック・バンド のステージにダンサーとして出演したほか、繁華街の街頭で何時間も無言で踊り続けたり、さらにはストリップ劇場にまでダンサーとして出演して、彼女は自分のスタイルを追求し始めていた。

いや、それだけではまだまだ物足りない。自分は長年ダンス・レッスンをサボってきたのだから、人の何倍も努力しなくちゃ一人前にはなれないだろう---。そんな不安が、彼女を奮い立たせる。花屋でのバイトでのなけなしの貧しい収入をなげうって、1985年、友人の鳴海ナナとともにニューヨークに渡り、現地でダンサー修業をする。これらは、みな彼女の、孤独な暗中模索の時代の、体当たりの「ダンサー修業の日々」だった。

そんな暗中模索と試行錯誤の活動の中で、彼女が出会った同世代の若者の一人が、安永亮(のちのスペースDJリョウ。当時は本名で活動)だった。リョウもまた当時、暗中模索の時代だった。
1985-86年当時は、まだDJが今ほど認知された職業ではなく、まだ新しいジャンルだったのだ。ハウス・ミュージックという言葉さえ、おそらく日本ではほとんど誰も知らなかっただろうと思われる時代のことである。

リョウとエリサは最初ディスコで、のちにエリサのダンス仲間で同じハーフでもあった鳴海ナナ、さらに市川カヲルを加えて「蜘蛛」というユニットを組み、ダンサー二人にDJ、サックス奏者という変わった編成のバンド、と言うよりもダンス・ミュージック・チームで活動を始める。

次に市川カヲルを媒介して、芙苑晶とマダム呪々のユニット「淫心」が、「蜘蛛」 と合流・合併し、第二期「淫心」となる。
この時点で見解の相違から鳴海ナナは入らず、セカンド・アルバム制作中にマダム呪々が脱退して、第三期「淫心」、すなわちファー・イースト・アシッド・ハウス・クワルテットの母胎となる四人組が誕生する。1988年の春のことだ。

このバンドに入った時、メンバーの中で一番高揚していたのは私だったと思う、と田嶋エリサはのちに語っている。

「淫心っていう名前が凄くいいと思った。そういうのは全部直感で決まるのだ。一瞬で。そのとき運命が決まったと私は思っていた。そしてそれは当たっていた。こういう点では、私の直感は外れたことがなかった」

「これが自分の生涯の仕事になると、直感的に思った。この機会を逃したら、私は一生、平凡なモダン・ダンサーで終わるだろうと」
(エッセイより)

こうして、エリのダンサー人生は、突然急展開した。ここから文字通り、彼女の第二の人生が始まることになる。しかし---。

淫心の2ndアルバム『鳥どもの家』のレコーディングが終わった時、四人は落ち込んでいた。彼らは自分たちの音楽の新しさとオリジナリティに自信があったし、インディーズの自主制作アルバムとしては驚異的な速さで完売したのだが、日本のレコード会社は相手にしてくれない。デモテープはことごとくボツになり、ライヴをやっても物を投げられたりしていたほどだった。
この時、「外国へ行こう」と提案したのは、田嶋エリサだった。

「お金はそこそこあったのね。あのアルバムの売上金があったから。でもアルバムが出たあと、スタジオの中で、みんなが『これからどうしよう』って悩んで、終わりのない話し合いをしてたのね。
それであたしが言ったわけ。『何もせずに悩んでるのなら、このお金をみんなでパーッと使っちゃえ! 』って。そしたら今度は『何に使おう?』ってみんなで悩んでる。私が思いつきで『外国行って遊ぼうぜ! 』って言ったんだよね。だから実はロンドン行きは、瓢箪から駒って感じで・・・(笑)」
(インタビューより)

 
●ロンドンでの日々、『十億の神経の針』、「イビザで朝食を」

1988年の夏、四人で渡ったロンドンでは、アシッド・ハウス・ムーブメント、いわゆるセカンド・サマー・オブ・ラブが起きていた。エリが気まぐれに提案したロンドン行きが、「ファー・イースト」の誕生とデビューという劇的な変化を生むとは、誰も想像しなかったことだった。

「みんな『嘘だっ!』 って叫んでたね。私たちが日本でやっていたような音楽が、ロンドンのクラブでかかってた。それがアシッド・ハウスだったの。
  もっと凄かったのは、ピンク・フロイドとかシド・バレットなんかをDJが回してたのね。もうみんな、ロンドンに着くなり『夢でも見てるんじゃないか』って言って、熱に浮かされたみたいに興奮してさ、『もうこのままロンドンに住んでもいい』なんてね・・・(笑) 」
(インタビューより)

「物凄く興奮した。毎日、次から次へと新しい出来事が起きていた。日本では全く相手にすらされなかった私たちが、気まぐれに行ったロンドンで、居場所を見つけたという感じだった。と言うより、神が案内してくれた出会いのような、神秘的な興奮があった」
(エッセイより)

まだハウス・ミュージック黎明期の、あるロンドンの小さなクラブに出演した時、異国の地にあって大受けで迎えられたのは、自分たちの音楽が純粋なテクノであること、そして田嶋エリサのダンスがあったからだろう、とリョウは推測する。
「なんのかんの言うても、ヨーロッパ人には根深い部分で差別意識があるからね。でも音楽とダンス、この二つは世界共通言語やから」

そしてこれがキッカケで、小さな噂が噂を呼んで、彼ら四人は当時のロンドンでのクラブ関係者(DJ、プロデューサー等々)たちと知り合い、いくつかのクラブやレイヴ・パーティに出演することになる。 Far East Acid House Quartet とバンド名を変更したのもこの夏のことだ。

そしてある夜、ロンドンのDJ/プロデューサーのデヴィッド・ローレンツと出会い、彼らは今や伝説的な「ファー・イースト」名義でのファースト・アルバム 『十億の神経の針(A Billion Nerve Needles)』(1988)のレコーディングを始めるのである。

パーカッションなら叩けた彼女は、おもにリョウの作り出すリズムトラックに合わせて叩いた。だがそれだけでは、他の三人に比べてあまりに少ない仕事量だった。「いったんやり始めると、ヘタと笑われようとも自分なりの100%をやらなきゃ気が済まない性格」の彼女は、この他にもロンドンの民芸品店(それは四人が毎日のように通っていたクラブのすぐそばにあった。踊りまくって朝帰りしたら、さあ、今度は買い物だ!)に立ち寄り、いくつかの民族楽器を購入、レコーディングに使用する。

さらにロンドンの楽器店で中古で見つけたシンセサイザー「VCS3」を購入。芙苑晶からシンセサイザーの原理と扱い方も教えてもらい、すぐに覚えた。彼女はピンク・フロイドが「狂気」の「On The Run」で使ったこのクラシックなアナログ・シンセのサウンドが大好きだった。芙苑晶は言う。
「エリは、僕ら三人とも驚いたくらい、ものすごく器用だった。全く知らない楽器でも、三日もあればそれなりにマスターできた。それも理論とかじゃなくて、体で、吸収するみたいに覚えてしまう」

結果、『十億の神経の針』はユニークなサウンドになった。 「意外なほど、エリがやったことが影響した」と芙苑晶はあとで語っている。「音楽やるのに、楽器がただうまけりゃいいってもんじゃないって証拠の、あれは見本みたいなレコーディングだったな」

レコーディングが終わった9月の上旬。市川カヲルは体調不良とホームシックを理由に日本へ一人で帰国。リョウはDJ修業と音楽の勉強のためロンドンに残る。
最初、田嶋エリサは決めかねていたが、芙苑晶が初のソロ・アルバムを作るために、アレックスというヒッピーの音楽家が借りてくれていたイビザ島のコテージへ同行する。芙苑晶がこの一軒家のスタジオでソロアルバムを制作している約二ヶ月半の間、彼女はともに同居生活をした。ロンドンでのレコーディングの最後の時期、二人は恋仲になっていたのである。

 
●「ファー・イースト」の花形スターとして

二人が日本に帰国した直後の88年の11月、「ファー・イースト」は日本での初の野外レイヴを行う。最初はたんに彼らの友達数十名が集まる「友達レイヴ」のようなものだったが、この年から翌年にかけて、噂は口コミで広がり、客が増えていった。

「その頃にはまだクラブはなくて、ディスコかライヴハウスしかなかったんで、あたしたちはそういうとこに出てた。89年に東京にアナザー・ワールドが出来て、あれが日本で最初のクラブだったんじゃないかな。それ以後、だんだんクラブが出来て、ファー・イーストはそういう場所にも出るようになったのね」
(田嶋エリサ。インタビューより)

「ファー・イースト」の醍醐味は何と言ってもライブである。ダンサー、DJ、ウィンド奏者、キーボード奏者の四人編成の即興演奏を主体とするこのダンス・バンドは当時、「世界にも例を見ないユニークなメンバー構成とスタイル」と言われ、レイヴァーやクラバーたちの間で熱狂的な賛美を浴びた。
3人のミュージシャンたちが繰り出す即興演奏に、田嶋エリサが即興ダンスで応じるというライブ・バトルは、彼ら以前にもなかったし、また彼ら以後にもなかったものだった。

だが、それだけではない。最初、88年の年末も押し迫った時期に神戸のライブハウスに「ファー・イースト」が出演するため、打ち合わせに行った時、ライブハウスのオーナーに「なんだ、ヴォーカルがいないの? じゃあ、君らは前座ね」とあっさり言われ、あるパンク・バンドの前座にされてカチンと来た田嶋エリサは、「客をアッと言わせてやろうと思って」、人の度肝を抜くようなパフォーマンスを披露した。

ステージにメンバーが上がり、バンドのオープニング演奏が始まったが、エリはなかなか踊らない。その代わりじっと立ったまま思いつめた表情で、安全カミソリでゆっくり手首を切り、流れ出す血をワインと混ぜて飲んだ。唖然としている客の前で、ビート・トラックが始まると、今度は踊りながら自分でシャツを破き、上半身裸になって、体にワインをかけたりしたあと、凄まじいダンスを踊った。
この過激な演出は成功し、前座だったはずの「ファー・イースト」のほうが、メインのパンク・バンドよりも盛り上がってしまった。パンク・バンドが引っ込んだ後、また「ファー・イースト」が呼び戻され、4曲を演奏するというハプニングまで起きた。

「あれが始まりだったんだよね」とエリは回想している。「あたしが予告なく突然にああいうことやったから、他の三人もビックリしてたけど、結果的には滅茶苦茶ウケたんで、いつの間にかあれが『ファー・イースト』のライヴのスタイルになっていったのね」
(インタビューより)

だがそれは同時に、「ファー・イースト」の音楽性とも深い関連があった。ファー・イースト・アシッド・ハウス・クワルテットのバンド・リーダーであり、アレンジャーだったキーボードの芙苑晶は、
「エリのダンスに合わせて僕らは作曲するし、また、僕らの作曲した音楽に彼女がダンスを考えていく。だからエリのダンスがは僕らの音楽の一部分であり、ジャズ・バンドにおけるアルト・サックスのようなもので、それもまた楽器の一部なんだ」
といった印象的な発言をしていた。

そういう立場であったことから、バンド活動当時は、田嶋エリサがリーダーだと思いこんでいた人が意外なほど多かった。それも無理はない。アルバム・ジャケットやポスターに彼女だけが登場し、インタビューでもフロント・マン(ウーマン?)をつとめていたのだから。

が、これはもちろん誤りで、バンド・リーダーは芙苑晶であった。
しかし、メロディ・パートでバンドを引っ張るヴォーカルに近い役目が市川カヲル、現実的な面での「仕切り役」的な意味でのリーダーがリョウ、音楽やアイディア面でのリーダーが芙苑晶だとすると、ちょうどそれとは正反対に、田嶋エリサは「表」のリーダー、すなわち「ファー・イースト」のイメージ・リーダーだったと言えるだろう。

 
●「レイヴの巫女」

「ファー・イースト」における田嶋エリサと言えば、もはや言うまでもなく、その神秘的で強烈なステージ・アクトで知られた存在だった。まず有名なのは、 Far East のライブのイントロだろう。よくあるパターンとして、次のようなものがあった。

アンビエント風の音楽からステージが始まり、逆光のシルエットになって現れた田嶋エリサは、ワイングラスにつがれた赤いワインを飲む。それからゆっくりとナイフを宙にかざし、左手で右の手首をスーッと切る。
しかし彼女は表情一つ変えず、右手に伝う真っ赤な血を、いとおしそうに吸う。そして今度は口の中の血と混ぜて赤ワインの残りを飲み干した。クラブなどで初めて見た客は、このあまりに強烈なライブのイントロだけで、すでに圧倒されて、会場からは悲鳴があがった。まるで中世の悪魔崇拝の儀式を思わせるような「みそぎ」の時間は、10分以上にも及ぶことがあった(のちにアルバム『太陽黒点(Sunspot)』にも「みそぎ」という題名の曲が収録されている)。

そして音楽がアップテンポになり、4ツ打ちキックのトランスに変わると、 彼女はだんだん文字通り「トランス状態」に入ってゆき、長い髪を振り乱し、何かに憑かれたように踊り出す。こういうパターンがよくあった。

野外のシークレット・レイヴでは、田嶋エリサがステージでダンスしながらどんどん服を脱ぎ捨てて(時に破いたりしながら)いき、最後にはトランス状態のまま、全裸になってしまう(体にはあらかじめボディペイントされたサイケ調の絵が描かれている)。そして生きた鶏を殺してその生き血を浴びる、というものがあった。彼女の狂気に反応した客たちも、たいていは半裸あるいは全裸になって踊り狂うのだった。

この話がメディアに取り上げられたため、有名になってしまい、「ファー・イーストの野外レイヴ = 若者の乱痴気騒ぎ」というイメージが定着してしまったが、実際には田嶋エリサのパフォーマンスには、時によっていろいろなパターンがあった。
顔に派手なサイケ調のペイントを施して登場したり、鳥や獣の仮面を被って踊ったり。時にはエリは、野外のパーティで踊りながら地面に倒れ、雨の中で泥にまみれたりする。

「単に脱げばいいと思ってたわけじゃ、全然ないんです。みんな裸っていうと、見せちゃいけないもの、見ちゃいけないものだと思ってるからね。
 そうじゃなくて、ここは神聖な空間なんですよ、ということを強調するために、非日常・非現実の世界にトリップするための『儀式』であることを知らせるために、何かショックを与えるものが必要なんですね」
(インタビューより)

こうした演出の数々によって、そこに異常な熱狂と、日常的感覚を超越した一体感が生まれた。あるファンは「あれ以上のトリップはなかった」と絶賛した。「これこそほんとうのサイケデリックだと思った」とも。また、 Far East こそ「トランス」や「レイヴ」の元祖であると主張する人たちが今でもいるのも、こういったイメージが強烈に焼き付いているからだろう。

そして、こういったすべてが、「ファー・イースト」の、他の日本のバンドにはおそらく絶対ないアンダーグラウンド性、そして自由性だった。「ファー・イースト」のライブに来る人たちは、彼らを嫌悪するか、それとも病みつきの熱狂的ファンになってしまうかどちらかだ、と当時よく言われたのはそのためだ。

こうしたパフォーマンスは当時、マスメディアには、スキャンダラスな採り上げ方をされた。たとえば日本のスポーツ新聞などは、俗悪なポルノまがいの記事として「ファー・イースト」のステージ、とくに「田嶋エリサという変わった女の子」について面白おかしく書いたこともあった。「ストリップ・バンド」の汚名を着せられたのもこのころ(1990年前後)のことだ。
結果的に、そうした一連のレビューが一つの宣伝となり、「ファー・イースト」は日本では最初ハプニング・バンドとして色物的に話題になった。「レイヴのドアーズ」などという異名がつけられたのもこのころだっただろう。

さてでは、エリはなぜこのようなパフォーマンスを始めたのか? 単にステージでのヴィジュアル効果やスキャンダルを狙ってのことだったのだろうか?
もちろん、そういう面がなかったとは言えないだろう。しかし、当時のインタビューなどから拾ってみると、彼女はレイヴというものを「祭儀」として解釈していたことが分かる。

彼女の当時のキャッチコピーは「レイヴの巫女」。「レイヴ = 古代の祭儀の現代における復活」というテーマを考え出したのは芙苑晶だが、この「儀式としてのレイヴ」において、他の三人が「ミュージシャン = 司祭」なら、エリは自らを「ダンサー = 巫女」と位置づけていたことが分かる。

比較的早くから(1990年頃か)「巫女」を自称していた田嶋エリサだが、そのような発想に至るまでには、いくつかのキッカケがあった。
まず、当然ながら、芙苑晶が提唱していた「レイヴ = 現代の祭儀」説に、エリは大いに同感していた。だがそこに加えて、彼女自身の神秘的な体験が絡んでいた。

 
●ハプニング・メーカーの鉄火姐さん、「平成の梶芽衣子」、それとも出雲 阿国の生まれ変わり?

エリは、ファー・イーストを始めてまもない1989年頃、よく当たると評判のある女性霊能者(京都在住で、芸能人や企業の経営者などもよく鑑定している人)を訪ねたおり、こう言われた。

「あなたは出雲 阿国(いずもの おくに)の生まれ変わりですよ。お金儲けや虚栄心からではなく、神の仕事だと思って、ダンスをやりなさい。そうすれば、人を救うことができる」

これがキッカケで自分の役割に目覚めた彼女は、女歌舞伎の創始者として知られる「出雲 阿国」に関心を持つようになった。そして、阿国に関する本(「阿波阿国漫遊記(あわのおくに・まんゆうき)」など)を読み漁り始めた、という経緯があった。

出雲 阿国(いずもの おくに)」とは、異様に派手な踊りで「かぶき踊り」とも言われる、安土桃山時代の遊女たちの女歌舞伎の創始者である。説明すると長いので、詳細はここでは略するが、2006年にはNHKでも出雲 阿国を主人公にしたドラマ(有吉佐和子・原作)が放映されたので、ご存知の方もおられるかもしれない。

また、「古事記」「日本書紀」にも登場する、史上初のダンサー(踊り子)・「天宇受売命(アマノウズメ)」などにも関心を持ち、熱心に研究していた。神話の記述から引用してみよう。

「・・・岩戸隠れでアマテラスが天岩戸に隠れてしまい、世界が暗闇になったとき、神々は大いに困り、天の安河に集まって会議をした。オモイカネの発案により、岩戸の前で様々な儀式を行った。
  そして、アメノウズメがうつぶせにした桶の上に乗り、半裸になりながらこっけいな踊りを踊った。
  神々は大笑いし、その哄笑に誘われて、天照大神が覗き見をしようとして戸を開けた。
  すると、アメノタヂカラオにひっぱり出され、再び世界に光が戻った。・・・」(参照: Wikipedia 日本語版)

この文章は、当時の「ファー・イースト」のレイヴのフライヤーにも印刷された一文(もちろん引用したのは田嶋エリサ)と内容的に同じものである。
「世界が暗闇になった時」( = 20世紀末、混沌の時代)登場した、「半裸でのこっけいな踊り」---これは確かに、どこか「ファー・イースト」における田嶋エリサのそれと似ていないだろうか? 彼女が興味を持つのも無理はない。
出雲 阿国」に至っては、田嶋エリサとほとんどそっくりに思える。抑圧され、不満を抱いていた民衆の中から生まれた大衆芸能の1ジャンルを作り出した創始者・・・それはまさに「ファー・イースト」におけるエリの姿そのものではないだろうか。

当時の彼女の発言から引用してみよう。

「ある時、フッと気がついたのね。私たちはいつか、神話になるんだって。天宇受売命(アマノウズメ)とまでは言わないけど、出雲 阿国(いずもの おくに)の生まれ変わりだっていう確信は私は持ってるの。これは、大マジメにそうだと思っている。(中略)
だからあの霊能者のおばあさんが言ったのは正しくて、これはお金儲けとか虚栄心とかじゃなくて、人を解放するためにやってる仕事なんだって・・・。だからそれは、アキ(芙苑晶)が言ったように、魂の解放っていうのが究極の目的なんだなって」
(インタビューより)

そんな彼女は、自分たちのステージを撮影されることを嫌い、ビデオはおろか写真すらも堅く禁じていた。

「何をしても自由だけど、撮影だけはしないで下さい。レイヴの本質は記録できるものではないことを理解して下さい」「あとでプレイバックできるようなものなら、最初からする必要がない」
「ファー・イースト」のフライヤーの隅っこには、いつも小さな文字で、こう記されていた。それは実は、田嶋エリサの言葉だった。フリー・ジャズの即興という考え方に影響を受けていたのは市川カヲルだが、ステージにおける一回性、シャーマニックな祝祭性に一番こだわっていたのは、エリだった。

こういった一連の考え方に彼女のダンサーとしての哲学の一端を垣間見ることもできるだろう。そういった美学的理解を抜きにして、ただスキャンダラスな面だけを論ずるのは片手落ちというものであろう。

一方、彼女のビジュアルも完璧で、時代に合っていた。174cmの長身(彼女はメンバーの中で一番背が高い)に、背中に入れた蝶の刺青。プライベートでは男顔負けにナナハン(750大型バイク)を乗り回す女ライダー。腰まで伸ばしたセンターパーツ分けのロングヘアと混血特有のどこか頽廃的にも見えるクールな美貌で知られた彼女は、「鉄火姐さん」風の颯爽としたイメージで、むしろ男の子以上に女の子たちのファンが多かった。

当時、「平成のカルメン・マキ」なんてキャッチコピーが出たが、これは確か某・新聞記事に出た言葉が流用されたもので、むしろファンたちの意見は「平成の梶芽衣子(1970年代にブレイクした女優。70年代の東映映画『野良猫ロック』・『女囚さそり』シリーズ主演で有名になった)」で、このキャッチのほうがのちに定着した。どっちか言うと、「(若き日の)梶芽衣子」のほうがはるかに似ている、というか、田嶋エリサのイメージには近かっただろう。

実際、風貌も雰囲気も(厳密にはもちろん違うが)、田嶋エリサはどこか、若き日(70年代の東映映画時代)の梶芽衣子と雰囲気が似ていた。おまけに、『野良猫ロック』・『女囚さそり』のような「あばずれ娘」のイメージを持つ映画の女主人公は、エリの過去から現在へつながる波乱と奔放の青春とぴったり重なる。当時の「地下室」誌上で、「カルメン・マキも分からないじゃないが、ちょっと違う。絶対、梶芽衣子だよ」と論争まで登場した。これは、ファンたちが、エリにどのようなイメージを抱いていたかが投影されている逸話だと言える。

(※現在のファンで、当時の田嶋エリサを知らない人で、彼女に興味を持っている人は、若き日の梶芽衣子をチェックすることをお勧めしたい。70年代の東映映画、『野良猫ロック』・『女囚さそり』シリーズに登場する梶芽衣子の雰囲気と声は、田嶋エリサと感じがよく似てるというオールド・ファンは多かった)

そしてそうした一連のイメージは、何かが起きそうな1990年前後のアンダーグラウンド・クラブ/レイヴ・シーンの暗く鬱屈した雰囲気と、「女が強くなってきた」と言われる90年代の雰囲気と見事にシンクロしてもいた。

なんだかおっかないお姉さんというイメージかもしれないが、彼女を身近に知る人たちは、「とても繊細で優しい人柄だった」と口を揃えて語る人が大半である。
たとえば一例として、レイヴ機関誌「地下室」に出たメンバーたちのインタビューを真に受け、「ヒッピーになりたい」と言って突然家出してきた十代の少年少女たちが、当時大阪にあった「ファー・イースト」の事務所に泊まりに来たことがあった。
そんな時、たまたま事務所に遊びに来ていた田嶋エリサが、彼らの話を聞いてやり、親元へ連絡して和解交渉の仲立ちをしたうえ、子供たちに家に帰るように説得したり、それでもガンコに帰らない子たちは、自分の家に何ヶ月も泊めてやったりするという、親切な面もあった。

 
●「双子の魂同士の結婚」、「逮捕」事件

1992年、田嶋エリサは同じ「ファー・イースト」メンバーでキーボード奏者・作曲家の芙苑晶と結婚する。イビザ以来、ファンの間にはすでに知られていた二人の仲だったが、ちょうど「ファー・イースト」の全盛期でもあり、エリ曰く「二人とも同じ髪型(腰まである長髪)で同じ理想と思想を持った双子の魂同士」というヒッピー同士の結婚はホットなニュースとなり、祝福をもって迎えられた。

だがこの二人は、その後ずっとコンスタントに交際をしていたわけではない。すでに述べたように、1988年夏のロンドンで、1st『十億の神経の針』レコーディング中に「深い仲」になった二人はそのままイビザ島にあった貸別荘に移り、しばらくのあいだ同棲生活をしたが、その後すぐに別れ、「バンドメンバー兼友達同士」に戻っている。二人とも別の交際相手がいたからである。

むしろ 89 - 91年頃のこの二人の関係は、バンド活動以外では、ともに世界各地を旅するトラヴェラー / ヒッピーの友人同士という仲だった。
二人の共通の関心はたくさんあった。ネイティヴ・カルチャー(先住民文化)、民族音楽、精神世界・・・とくに、この頃から世界各地で開催されるようになった、トランス系のレイヴ・パーティである。言ってみれば、自分たちの個人的な楽しみと、仕事上の視察や情報収集を兼ねた欲張りな旅を、アキ・エリの二人はしじゅう共にしていた。
「ファー・イースト」がアンダーグラウンドでありながらインターナショナルな活動エリアを確保できたのは、この二人の動きが大きかった(リョウ・カヲルの二人は、この当時日本を離れることはほとんどなかった)。

「(男の人と付き合うとき)あたしはまず、対等に友達になれないとダメなのね。ロンドンの時は衝動的だったけど、まだあの当時は、お互いのことをよく分かってなかったし。
  でも、バンド活動以外でもアキといっしょに旅したりとか、レイヴァー・コネクションの活動なんかやるようになって、お互い相手のことが、より良く分かるようになったのね」

「だからほんとうに好きになったのは、その頃だと思う。たんにカッコイイとか、才能があるとか、優しいとか、そういう人はいっぱいいるじゃん。でも彼は、それ以上の『何か』がある人だと思ったんで・・・」

「あたしにはほんとうは、子供の頃からの理想があった。大げさな言い方かもしれないけど、お互いの理想とか思想を共有できる同士って言うか。でもそれは夢物語で、そういう男は現実にはいないだろうってんで、内心あきらめてたわけ。
  だからああいう風に、同じ理想とか思想を共有できる同士だってわかった時は、もうこれは離れられないんじゃないか、ってね」
(インタビューより)

こうした複雑な経緯を経て、結婚にたどり着いた彼らは、仕事とプライベートの両面で協力関係にあった。「ファー・イースト」としての活動を離れた場所でも、さまざまな共同作業をよく行なった。とくに、芸術面での相互協力が多かった。
たとえば芙苑晶のソロアルバムに田嶋エリサがシタールや民族楽器でゲスト参加したり、エリが開いたモダン・ダンスのソロ・リサイタルのために芙苑晶が音楽を担当したりといった形である。

あるいは、こんなこともあった。アムステルダムのクラブでファッションショーが開かれた時、芙苑晶はショーで使う音楽の作曲を全面的に依頼されるが、その仕事を取ってきたのはエリである。
「90年代のヒッピー・スタイル」という、彼らにもピッタリのテーマを持ったこのショーに、芙苑晶はアンビエントから、アップテンポのトランス・ハウス・ナンバーまでを提供し、エリはこのショーにモデルとして出演。彼女はレイヴ・ダンサーとしてのキャリアを遺憾なく発揮し、ひときわエキセントリックなモデリングを見せた。ちなみにこのショーのオープニングとエンディング・テーマに使用された曲は、のちに「Ruins 2」として、芙苑晶のセカンド・ソロ・アルバム『荒廃(Ruins 2)』に収録され、クラブ・ヒットとなった。

この二人のコンビネーションはかなり好評を博し、以後、ヨーロッパや日本でいくつかこれに似た仕事をするようになった。語学に堪能あで人付き合いの上手な彼女は、顔の広さを利用して仕事を取ってきた。
「貧乏ヒッピーのカップルが、突然にわかリッチになったのはエリのお陰」と、芙苑晶はのちに言った。
「俺がああいうポップなトランス・ハウス調の曲を意識して書くようになったのもこの時なんだよね。『Ruins 2』がシングルになったのも、そのあとで俺のアルバムがだんだん売れ出したのも、元はと言えば、あのショーがキッカケだったわけで、それもこれもエリのお陰なんだよね」
  あのショーの仕事がなければ、自分は今でも野外レイヴのプロデューサーをやっていたかもしれない、と、彼はバンド解散後のインタビューでぼそりと言った。

 
●インド〜チベット:生と死の最果て

92年、商業化するクラブ・シーンに反発した「ファー・イースト」は、クラブ出演をやめ、以後はレコーディング・バンドとして活動することを宣言。解散までに通算6枚のスタジオ・アルバムを発表したが、宣伝もほとんどしなかったため、以後は、ほとんど事実上忘れ去られたバンドとなっていた。

元々ダンサーであった田嶋エリサは、バンドがクラブ出演をやめて以後は、年に数度の自主的な野外レイヴのみでの活動があるのみで、ヒマになってしまったため、いくつかの新しいことにチャレンジし始めた。

レコーディングでは、パーカッションや民族楽器に加え、以前から好きだったシタールやテルミンを練習した。とくにシタールは、さらに上達していた。「ファー・イースト」や芙苑晶のソロ・アルバムなどでもシタールの腕を披露しているほか、94年に芙苑晶プロデュースによる彼女のソロ・アルバム『神経(Nerves)』を制作・発表。限定盤300枚という稀少なものだが、すぐに完売。彼女の好きなエスニック・アンビエント・ハウス風の自作曲などが盛り込まれた、珍しいアルバムである。

バンド活動が停滞した「ファー・イースト」後期、ヒマを持て余した彼女が、プライベートで熱中したのは、愛用のナナハンを駆ってのツーリング、読書、瞑想、そして旅である。「エリのパスポートにはいつも、数え切れないくらいのスタンプが押されていた」のを、市川カヲルはよく覚えていた。それくらい旅が好きだった。
夫である芙苑晶と二人で旅することもあったが、女友達と行くこともあったし、一人旅も好んでした。また彼女にはそれを可能にするだけの条件もあった。アメリカと日本で育ち、母の実家がヨーロッパにある彼女は、日本語以外に(ヘタな言語もあったが)五ヶ国語をどうにか話せた。そして何より「誰とでもすぐに親しくなる天才」の彼女は、ヨーロッパやアジア各地、アメリカ、カナダなどを旅した。

とくに彼女のお気に入りだったのは、観光地的でない僻地やスラムのあるような場所である。旅行者の集まる人気スポットよりは、未開の文明が残るニューギニアや、仏教徒が敬虔な祈りを捧げるインド、チベット自治区、カンボジアなどだった。

とくに彼女のインド好きは有名で、「ファー・イースト」以前の1985年以降、田嶋エリサは数度にわたり、インドやネパール、チベット自治区を旅している。彼女が「ファー・イースト」のレコーディングで使っていた楽器類が、シンセサイザーやテルミンを除くと、民族楽器がほとんどなのに気づく人も多いだろう。
こうした楽器類は、彼女が旅をするごとにあちこちの土地(おもにそれはアジアと中南米が多かった)で、(たいていの場合は偶然)見つけて買い求めたもののコレクションだった。

そんな彼女にとって、とくに90〜92年のインド / チベット行きは、新たな目覚めの時期でもあった。
この旅は彼女の死生観に大きな衝撃を与え、彼女を精神的な覚醒に導いていく。92年、一人の僧侶のもとで、チベット密教を学び始めた彼女は、これこそが自分の求めていたものだと思った、という。

「バンドを始めた時と同じだよね。これだ、って一瞬でわかるの。私はチベットに惚れてしまった」
「うちのメンバーとかスタッフなんかも、いちおう誘ってみたけど、結局アキ以外は、誰も来なかったけどね。
あれは、誰でも行ける場所じゃないから。出会いみたいなものがあるのね。呼ばれた人しか行けない場所だと思うから・・・」
(インタビュー)

とくに、チベットの山岳地帯で見た鳥葬は、「もう何が起きても驚かないと思っていた」はずの彼女に、死ぬまで忘れられないほどの衝撃を与えた。日本に帰ってから、彼女はその感慨を詩か小説に書こうとしたがうまくゆかず、友人だった詩人の野崎ニーナにその話をすると、しばらくして野崎ニーナは「鳥葬」という詩を書き上げて、田嶋エリサに捧げた(同じ詩は、野崎ニーナの詩集にもおさめられた)。

さらに、この詩をモティーフにした「Sky Burial (鳥葬)」は、のちに「ファー・イースト」のアルバム『肺魚の夢(Lung Fish Dreams)』(1995)にも収録されたので、ご存知の方も多いだろう。この曲は、ある意味で「ファー・イースト」後期を代表する曲となった。

1993年の夏、芙苑晶・田嶋エリサ夫妻が、麻薬取締法違反で逮捕されるという事件が起きる。
二人の京都の別宅(本宅はアムステルダムにあった)で行われていたホーム・パーティで、彼ら夫妻をはじめ、現場にいた彼らの友人である、モデル、カメラマン、ジャーナリスト、ミュージシャン、DJ、ダンサー、クラブ・プロデューサーなど合計9名が一度に検挙され、パーティに持ち込まれていた物の他に、自宅の押入にあったコカイン、クラック、LSDなどの薬物数点が押収された。

連続して起きたこれらの事件は、ファンにも衝撃を与えた。かつて野外のレイヴなどで(おもに騒音防止法違反、風紀紊乱などで)メンバーやスタッフたちが厳重注意または逮捕されることはあったが、麻薬取締法違反の容疑でバンドメンバーが逮捕されたのだ。芙苑晶は保釈請求後、執行猶予付で出所。田嶋エリサは初犯ではなかったので、やや罪が重く、受刑期間も長かった。

 
●早すぎた死
田嶋エリサ - Elisa Tajima
▲ 天才的即興ダンサーとして活動した田嶋エリサ。ナナハン、旅、読書に熱中した、スケールの大きな女性でもあった。
写真は、アルバム『肺魚の夢(Lung Fish Dreams)』(1994)に登場した彼女。

95年は「ファー・イースト」ファンにとって衝撃的な事件が続いた年だった。この年の6月、市川カヲルが死去。わずか27才の死は、その晩年の奇行の数々とともに、不気味な噂ももたらした。

「カヲルがあんな形で死んだのは、ほんとうにショックだった。今もそのショックから、私は立ち直れてないです」
(インタビューより)

翌96年2月、彼女はバイクで走行中に事故に遭い、右脚を骨折。担当の医師は、「プロのダンサーとしては、まず再起不能。ほんとうなら今頃、車椅子でもおかしくなかった」と言った。アルミ製の杖を突いて歩く彼女が目撃され、FC会報にもファンからの心配する声が寄せられる。
だが頑張り屋の彼女は、リハビリを繰り返し、奇跡的な速さである程度まで回復。どうにか歩けるようになり、医師も驚いたという。

96年の春には、市川カヲルを除いたメンバー3人(田嶋エリサ、スペースDJリョウ、芙苑晶)は、野外のレイヴ・イヴェント「レインボー2000」への出演なども予定し、シーンへの復帰を計画していたが、エリがまだ不調だったため、これは果たせずに終わった。

さらにこの年の10月、田嶋エリサは芙苑晶と離婚。「もう一度、元の友達同士に戻るだけ。気が向いたらいつでも再婚する」という共同声明として発表した。

このところ、トラブルやアクシデント続きだった彼女は、96年の秋から冬にかけて、休暇を取り、ニューヨークに滞在している。かつて1986年頃にNYに短期間住んで以来だったが、「その時教会で聞いたゴスペルの優しい響きが忘れられなかったから」だった。

ゴスペルは、彼女に希望をもたらした。エリは、黒人の女の先生についてゴスペルを学び、毎日のように教会や広場や自宅で歌を歌った。
帰国した時は、かなり上達していたので、「ファー・イースト」5枚目のアルバムとなった『太陽黒点(Sunspot)』(1997)のレコーディング中、リョウは彼女がその場で歌ったヴォーカルの上手さに感動してしまい、何曲かにエリのヴォーカルをフィーチャーしようと提案したが、彼女はこれを拒否。私は歌手になるつもりはなく、自分のために歌うのだ、と答えた。

いずれにせよ、エリは今や、新たな方向性を模索していた。ダンサーとしての「復活」への希望を捨てたわけではないのは、リハビリを繰り返していたことでも明らかだが、「事故に遭ったことで、多くを学んだ。プロとして軽はずみだったと思う」と謙虚に語り、一方、「一時は落ちこんだけど、でもあの事故で、ダンスにだけこだわっていた自分が小さく思えたのね。これからは、スタイルにこだわらず、芸術活動を通して人に希望を与える人間になりたい」とインタビューで宣言。

また同時に彼女は、新しいクラブをオープンする企画を進めており、完成したら自分はそこのオーナー兼プロデューサーとして仕事をしたいと語った。

「若い子が集まるような場所を提供したいのね。私自身はもう、若くはないけど、でも、大人になったぶん、客観的にものが見れるようになってきたんで・・・。
  だから、あんまり恐くないやつね(笑)、誰でも気軽に来れるけど、商業化された大ハコとは一味違うようなやつ。小さいけど、チャージが安くて、オールジャンル日替わりメニューでDJが回すような・・・そういう場所を提供して、若者の解放区みたいに出来たらいいなと 」
(田嶋エリサ。最後のインタビューより)

これは夢物語ではなく、現実的なプランで、彼女はメンバーやスタッフたちとともに、大阪郊外のドライヴイン近くに土地を見つけ、スポンサーと何度も交渉しており、設計図まで作らせていた。しかも、アキが音楽面のプロデュースを担当し、リョウが専属DJとして入るというプランまであった。よくこれだけ短期間にと思うほど、行動家の彼女らしい展開に、周囲の人間も驚いていたほどだった。

が、ちょうどその直後 --- 市川カヲルの死の衝撃もファンの間でまだ冷めやらぬ97年1月30日未明、田嶋エリサのマンションの部屋(すでに彼女は独り暮らしだった)を訪ねてきた女の友人が、持っていた合鍵でドアを開け、田嶋エリサが浴室で死亡しているのを発見した。

市川カヲルの時と違い、田嶋エリサはバンド以外にもダンサーやモデルとして活動していたため、新聞などでも死亡が小さく報じられたほか、 ファンの間に強い衝撃をもたらした。カヲルの死後、残された「ファー・イースト」の三人(田嶋エリサ、スペースDJリョウ、芙苑晶)は、「これからやり直そう」という方向でミーティングを重ねていた矢先だっただけに、なおさらだった。

発見された時は全裸で、「その死にざまはいかにも彼女らしかった。死に顔はとても美しかった」と、発見した友人はのちに語った。
享年30才。

 
●「彼女は、人の倍以上生きた」--死の波紋と検証

一方、彼女の晩年である1996-97年にかけて、機関誌「地下室」に長期連載された「自伝的青春記」と題された長編エッセイの中で、おもに彼女のダンサー・デビュー以前の時代、つまり十代の波乱の日々が赤裸々に描かれ、生前からすでにファンの間で反響を呼んでいたが、奇しくもこの膨大な手記が、田嶋エリサの「自伝」そのものになってしまった。
この連載は、市川カヲルの死後に始まり、彼女の死の時期(1997年1月)をまたいで、ファー・イースト解散の時期(97年9月)に連載が完結するという、「出来すぎたタイミング」があったため、当時、ファンの中では自殺説も囁かれたが、関係者は、これはただの偶然であり、「エリは自殺するようなタイプでは絶対にない」と、一様にこれを否定する。

具体的な証拠もあった。エリは、先に述べた、クラブをオープンする企画を真剣に進めていたことや、同じ97年の春から夏にかけて、再びファー・イーストのメンバーとして、あるいはソロ・ダンサーとしての活動予定があり、エリの死後発見されたメモ帳にも、彼女自身の筆跡による詳細な予定が記されていること。
さらに決定的なのは、死の前日と見られる1月30日には、エリは、仲間たち数名(リョウ、芙苑晶、トランス・レイヴ・ドーターズのDJアゲハ、香港リルの二人、マネージャーの土井昌美ら)と、大阪のクラブ、ベイサイド・ジェニーに、エイフェックス・ツインのライブを見に出かけ、そのあと飲み会にも出席し、元気そうにしていたこと。しかも、リョウとアキというファー・イーストのメンバーたち二人とは、「来週の予定(ミーティングとレコーディングの続きをするはずだった)」まで約束している。
メンバーやスタッフたちは、「エリは気まぐれなところはあるが、しかし義理堅い人間で、人との約束を破ったことなど一度もない」と口を揃えて証言する。つまり、自殺するつもりでいたら、最初から予定など入れるわけがない、というのである。

死因は急性心不全とだけ発表され、直接的な原因については公表されなかったものの、これらの一連の前後関係から見ても、田嶋エリサの死は「不慮の事故死」とほぼ断定されている。とくに、前後関係から判断して、「ヘロインによるオーバードーズ(ドラッグの過剰摂取)による事故死」という説が、今も濃厚である。

生前、田嶋エリサは、もしも自分が死んだら、彼女が愛したチベットの高地で鳥葬にされることを望んでいた。
だがこの願いは無視され、2月上旬の冷たい雨の降る日、横浜のキリスト教教会で通常の葬式がおこなわれた。ただし密葬で、ごく少数の関係者だけが集まった。

 
●「レイヴのジャンヌ・ダルク (Jeanne d'Arc of Rave)」

二人のメンバーが立て続けに夭逝するという悲劇に見舞われたこの「呪われたバンド」は、この夏、自然消滅の形で解散した。
翌97年にファンの間に限定版として配布されたスタジオ・アルバム『太陽黒点』(そしてサヨナラ・ナイトに来た人だけが買えた特別シングル盤『電極世界』)が発表された。

97年5月に大阪のクラブでおこなわれた「バイバイ・イリーガル・レイヴ」(これもイリーガル・レイヴだったため、場所は非公開だった)には、スペースDJリョウと、「ファー・イースト」フォロワーであった十代のトランス・レイヴ・ドーターズが出演(芙苑晶は欠席)、予定をはるかに上回り、300人近いファンが集まった。

そしてこの「ファー・イースト」の花形ヒロインであった田嶋エリサは、彼らのイメージ・シンボルであり、リーダーでこそなかったがファー・イースト・アシッド・ハウス・クワルテットと言えば、未だに田嶋エリサのダンスしている姿を思い浮かべる人も多い、そんな鮮烈な印象を残した、忘れがたい存在だった。

この最後のライブののちに発表された5th『太陽黒点(Sunspot)』は、こころなしか田嶋エリサの非業の死を予感させるような、彼女の顔のないヌード写真(まるで死体のようだと言ったファンもいた)がジャケットを飾った。

市川カヲルの死の時と違ったのは、今度は事実上、エリの死によって、ファー・イーストが解散へ追い込まれたことであった。機関誌「地下室」では、「ファー・イースト・アシッド・ハウス・クワルテット・解散」と相前後して、「田嶋エリサ・追悼特集」を組んだ。

この増ページ特集号には、ファンからの田嶋エリサへのメッセージが数多く寄せられたが、ファンの中には、彼女をジャンヌ・ダルクに例えた人がいた。これを受けて、編集長の三珠アケミは、次のように記した。

「非行と絶望のどん底で、まだ十代の少女だった彼女は、神の声を聞き、立ち上がった。そして突然、踊り子になった。逮捕され、異端者として裁かれた。マスコミが彼女を叩くさま、それはまるで、中世の魔女裁判のようだった。だが彼女は、権力や陰謀に屈することなく、無力な若者たちを導き、いわば、『殉教死』したのだ。
 彼女は、レイヴのジャンヌ・ダルクであった」

レイヴのジャンヌ・ダルク」---雑誌『地下室』の田嶋エリサ・追悼文の中に何気なく使われたこの言葉は、のちにファンの間に流布し、さらにのちには、海外にも飛び火した。
当時、田嶋エリサの死後、ヨーロッパのメディアに現れたレビューの中には、田嶋エリサを「史上初のレイヴ・ダンサー」と紹介。彼女の、異端、カリスマ、反体制的思想、短命で激しく劇的な生涯などのイメージから、「Jeanne d'Arc of Rave(レイヴのジャンヌ・ダルク)」と記したものまで登場した。
田嶋エリサは、文字通り、「伝説」となり、それはそのまま、バンド解散後の「Far Eastの伝説化」へとつながっていった。

当時のバンド・マネージャーであり、親しい友人でもあった土井昌美は、「地下室」誌上のインタビューに答えて、次のように語った。

「たった30年という人生は、たしかに、あまりに短すぎると思う。しかもエリは、これからいくらでも活動できる人だったし、彼女自身もそのつもりでいたと思う。
 でも反面、最近、彼女は人が思うほどには短命じゃなかった、と、ふっと思うこともある。エリは、大胆な行動力があって、いつも人の倍のスピードで動いているようなところがあった。だから、私たちと同じ時間の中を、他の人の目には見えないスピードで、駆け抜けていったのかもしれない。つまりエリはほんとうは、100年ぐらい生きたことになるのかもしれない 」

「私は友達が多くて、いろんなタイプの子を知っていたけど、エリほど純粋な女の子はいなかったと思う。
 世間の人は、彼女のステージのイメージから、過激だとか、ハレンチで狂気じみてるとか、これは堕落した芸術だとか言ったけど、私に言わせればそれほど見当違いの評価もない」

「プライベートでのエリは、とても物静かで、優しくて繊細で、ハスキーな声で穏やかに話す、ちょっとシャイな女の子だった」

 

田嶋エリサは、生前、こう語った。

「ファー・イーストみたいなバンドは、世界中捜しても、他に一つもないと思う。元々小さな友達の輪が、いつの間にか広がって、あれほどの規模にまでなった、世にも稀なバンドだったから。
  あんなことは、やろうと思って出来るもんじゃない。実際私たちも、こんな風になるなんて最初は想像もしてなかったし。
  だから私は今でも、神さまにやらされたんじゃないか、って思ってるのね」

「だからみんなにありがとうって言いたい。ファー・イーストを作ってきたのはほんとは、私たちメンバーやスタッフだけじゃなかったから。
 みんなが参加してくれたからこそ、ああいう凄いムーヴメントが起きた。私たち四人は、そういうおおぜいの、ある世代の、名もない若い子たちの代表者に過ぎない」

「TVや新聞は、パンドラの箱。私はそういうものを自分からは見ないし、読まない。そこには私のこの世で一番嫌いな、醜いものが全部ぎっしり集まってるし、そういうものに影響されたくはないから。
 私たちのファンの子も、そういう子たちが多かった」

「野外のレイヴというのは、必然があってやったことだ。つまり自分たちのやりたいことをやりたいようにやれるようにするには、決まり切った四角いコンクリートの箱の中よりは、野外でやるほうがよかったから。
 だから、私たちの本懐はイリーガル・レイヴにあった。野外のステージでやると、火炎瓶を投げようが、楽器壊そうが、クラブでやるのとは全然意味が違ってくるんだよね」

「私たちは、バンドというよりも、アパッチ族みたいなイメージがあった。一種の、野生の部族、若者による新しいトライブだ。
 黎明期のレイヴ・カルチャーには、そういうものがあった」

「いつの時代にも、希望はそれぞれが、自分で捜すしかない。誰かに頼っちゃいけない。
 この世には罠がいっぱいある。地雷も、あちこちに仕掛けられてる。
 上手に上手にそういうものを避けて、強く強く、生き延びなくっちゃ、ね」

「ファー・イーストは、私の誇りだ。このバンドに入らなかったら、私はただの平凡なモダン・ダンサーで終わったと思う。そのダンサーにすらなれなかったとしたら、もしかしたら今頃、誰かと結婚して、専業主婦でもやっていたかもしれない。
  そう思うと、生きてきてよかったなって、この頃よく思う。たとえイヤなことがあっても、めいっぱいワガママに生きたほうがいいって」

「たとえこの先、どんなにいやなことがあってもいい。昨日より今日が、今日より明日が不幸でもかまわない。
  それでも私は、生きていたい。
  私は、天国も地獄も、人よりたくさん見てきた人間だ。
  だからこそ、最近、よく思う。
  自分を見失いさえしなければ、生きていることは、それだけで素晴らしいことなのだ。
  生きていくためなら、悲しいことも、悔しいことも、腹が立つことも、重苦しい憂鬱も、
  全部私は、積極的に引き受けよう 」

「ファー・イーストのあの時代はもう二度と来ない。いい時代だった。
 私はそういう時代に青春を生きられたことを誇りに思う。
 誰も私たちを褒めなかったけど、
 この静かなプライドとよろこびは、いまもなお私たちだけのものだ 」

 
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