Far East Acid House Quartet - ファー・イースト・アシッド・ハウス・クワルテット
 
ファー・イースト・アシッド・ハウス・クワルテット( Far East Acid House Quartet )ファンサイト/資料館
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ファー・イースト・アシッド・ハウス・クワルテット ( Far East Acid House Quartet )

 

スペースDJリョウ - Space DJ Ryo
▲ スペースDJリョウは自分の音楽ないしはハウス・ミュージックを、パンクの延長線上にあるものだと考えていた。彼のDJスタイルにはそのスピリッツが表れている。
● 【スペースDJリョウ】 Space DJ Ryo
 【ハウス・パンクスのシュールな狂気】
(1963.09.13〜)

DJ、ミュージシャン。「ファー・イースト・アシッド・ハウス・クワルテット」元・メンバー。ターンテーブル、プログラミング、ビート・パート担当。通称「リョウ」。

1963年9月13日大阪・此花区生まれ。本名・安永亮(やすながりょう)ことスペースDJリョウは、在日韓国人一家の長男として誕生した。しかしその点を除けば、他のメンバーと比べて彼は最も平凡な家庭環境で育っている。
リョウの父は肉体労働者だったが、 アマチュア・ミュージシャンとして60年代からバンド活動をしていた。母は平凡な主婦で、きょうだいは五才下に妹がいる。
 

●ハウス・パンクスのオリジネーター、リョウ

「ファー・イースト」きってのパンキッシュなキャラクターであり、「コワモテの兄貴」なイメージが強いリョウ。スキンヘッドに黒いサングラス、両耳にたくさんのピアス、両腕に刺青。至近距離で彼を見た人は、たとえファンでもあってもちょっと怯えてしまう。
おまけに、パンクバンドのドラマー出身、コテコテの大阪弁。礼儀が苦手で、初めて会った人にも「うぃっす」と一言短く、頭を下げるだけ。--これだけ揃えば、たいていの人は「引いて」しまっても無理はない。バンドメンバーたちですら、初対面では彼を恐がったのだ。

ところが彼には、熱烈な支持者も多かった。「ファー・イースト」の強烈なトランス・ビートを生み出すビート・クリエイター。「ハウス・ミュージックはパンクの延長線上にある」という独自の哲学(彼はこのスタイルを「ハウス・パンクス」と呼んだ)をもって、音楽をクリエイトし続けた男。サウンド面ではとくに大きく貢献し、シュールでアヴァンギャルドな音を出すのが得意だった。

が、音楽そのものについてはインタビューでもあまり多くを語らず、ライヴではひたすらヒートアップしたビートを繰り出し、客を踊らせ、熱狂させた。が、クラブ出演の時などは、にこりともしない無愛想な顔で、奇抜かつドギツいギャグMCを入れる、このアンバランス感覚が、野外レイヴよりはクラブで客を湧かせた。

そんなリョウへの評価は、人によっていくつかのパターンに分かれる。「恐い外見に似合わず、心優しい男」「仲間想いの親分肌」「口ではエゲツないこと言うけど、どこか憎めない奴」といった肯定的評価の反面、「夜でもサングラスで素顔を隠して、何考えてるか誰にも分からない不気味な男」「自意識過剰でひねくれた男」と言う人もいる。まるで正反対にも見える評価が共存しているが、どちらも当たっているだろう。

そのどこかアンバランスにも見えるリョウのキャラクターの裏には、自分の節を曲げないガンコさがあった。レイヴ・スピリッツにこだわり、バンドメンバーの中では最も「反・商業主義」を標榜していた彼は、もしかしたら最もピュアな人間だったのではないか、と言う人もいる。

そんな彼の音とスタイルは、「呪術」や「幻覚」のイメージが強い「ファー・イースト」の中に、もう一つの「世界」を作っていたと思う。そしてその「世界」は、「ファー・イースト」のガレージ的でパンキッシュなイメージに、大きく貢献していた。

インタビュー等では、「そこまで言うか」と思えるほど本音丸出しの強烈でストレートな発言も目立つ反面、自らの生い立ちに関しては逆に、リョウ独特のパンク・ロッカー風韜晦に通ずる「虚言癖」もしばしば見られ、どこまでが嘘でどこまでが本当か、今となっては不明な点も多い。
たとえば、当時、十代の記憶にしても、あるプロフィールでは「13才の時両親に死に別れ、孤児院に入る」と書かれているかと思うと、「高校の数学の授業中、突然神からの天啓を受け、教師を殴り倒して教室を飛び出し、そのまま学校へは戻らず、パンク・ロッカーとなる」などと書かれている。

いずれもリョウの自作自演とも思しい「プロフィール」で、あとで読み直してみると、辻褄が合わないものもやたら多い。しかしこれは、虚言癖と言うよりは、「人を煙に巻く韜晦癖」、平たく言えば、パンク的ブラック・ユーモアとでも呼ぶべきだろう。だいいち、当のリョウ自身が、インタビューではこれらの経歴と違った内容をぬけぬけと語っており、本人自身がそもそも辻褄など合わせようとすら思っていないかのようだ。そもそも、彼の両親や妹は今も健在で、今も郷里の大阪で平和に暮らしていることは分かっているし、少年時代はサッカー選手志望だったことなども、ファンの間ではすでに知られている。

しかしこの一連の「虚言癖」そのものが、リョウのキャラクターの一端を物語っているとも言えないだろうか。受け取り方は人それぞれだろうが、たとえば「ミュージシャンのバイオグラフィなんてクソクラエ、黙って音楽を聴け!!」というメッセージとも取れるし、もっと深読みすれば、リョウ自身がしばしばインタビューで口にしたように、「事実にこだわる奴は、真実を見ようとしない」ことへの、リョウならではの無言のしたたかな反逆とも取れるかもしれない。ふだんですら、サングラスを滅多に外すことがなく、素顔を隠し続けたように、「この嘘だらけの世の中で、虚構の中にこそ真実がある」--そんな風に考えていたふしも、多々見られるのである。

 

●「いつも鬱屈していた俺の耳には、工場のノイズが聴こえていた」

いずれにせよ、少年時代のことを詳細には語っていないので、詳しいことは不明だが、資料を調べる限り、彼が自筆で書いたものは虚構が多く、インタビューでの回答では逆に、嘘は全く言っていないと思われる。
そこで、おそらく彼が「事実」を語っていたと思われる、ファー・イースト活動当時のいくつかのインタビュー及び、リョウが書いた唯一のエッセイ『電気羽虫はターンテーブルの夢を見るか』の中からピックアップしてみると、リョウの少年時代とは、おそらく次のようになるだろう。

1963年生まれの彼は、ファー・イーストのメンバーの中では最年長だ。生まれ育ったのは、大阪の此花区。いわゆる阪神工業地帯である。家族仲は良かったし、全体としては「比較的幸福な少年時代だった」が、リョウ自身は「鬱々として、いつも鬱憤の塊」で、それが「表現に向かった理由」だと思う、と語っている。これは、彼の育った環境に関係があるようだ。

「ちなみに俺、子供ん時からずっと、今日に至るまで、ええ環境に一回も住んでないわけ。俺が生まれたんが大阪の此花区いうとこ。いわゆる阪神工業地帯で、重工業とかいっぱいあるわけ。
たとえば俺が覚えてるのは、子供の頃、俺の実家の近所に工場があって・・・、ガシャンガシャンガシャン、バシンバシンバシン、ゴトンゴトンゴトンとかな、工場の機械かなんかの音が聴こえてるわけ。不規則な機械音。それが朝から晩まで、ずっと聴こえてるわけ。
それ聴いて育つわけ。いわゆる、インダストリアル・ノイズな。それがいっつも聴こえてた」

子供の頃から、SF、とりわけ、フィリップ・K・ディック等の近未来サイバーパンク小説を愛読し、音楽よりはノイズに惹かれていたというリョウは、この「工場のノイズ音いうのが俺の音楽の原体験であることは間違いない」と語っている。

「子供の頃からあんな、ガッチャンガッチャンギコギコキーーーいう音聴いててみ。頭も耳もおかしなるて。そしたらパンク聴いて、『あ、これはええ音楽や』て思うような人間になるわけよ。そういうふうに育ったわけよ俺は。

「で、ああいう汚い劣悪な環境におるから、ようわからんわけ。世界いうのがようわからんわけ。世界はどないなってんねんて思うわけ。
それで、窓の外見るやん。汚ったない工業地帯が見えてるわけ。俺は窓開けたい思うやん、子供やし。そしたらオカン(お母さん)が「窓開けたらあかん!!」て言いよるわけ。俺は泣くわけ。子供やから腹立って、癇癪起こして泣くわけや。 」
(リョウ。インタビューより)

しかし、この「劣悪な環境」こそが、のちの彼の世界観と音楽表現に影響を与えたことは、もはや疑いの余地がない。彼は自分自身の少年時代を、デヴィッド・リンチの『イレイザーヘッド』の主人公の「消しゴム頭の男」、そして、丸尾末広の漫画『電気蟻』(原作はフィリップ・K・ディックである)の主人公の少年になぞらえて、こう語ったことがある。

「そういう世界。リンチのイレイザーヘッドのサントラの世界。丸尾は絶対『イレイザーヘッド』も見てるはずやし、ああいうパンクとかインダストリアル系の音楽とか、知ってる思うけどね。
あの漫画の中で、少年がだんだん発狂するやろ。パラノイアになっていって・・・。あのパラノイアになるプロセスで、いっつも工場のノイズがずーっと聴こえてる。機械の音が聞こえてる」

「少年は、まだ少年やから、勉強せなあかん。将来のことも心配やて。そう思いながら、何しとんのかな、なんにもしてへんねんな。勉強もでけへん。将来のことも考えられへん。ノイローゼやから。生まれつきノイローゼみたいな感じやから。
可愛い女学生の女の子が自転車かなんかに乗って道を通り過ぎる場面がある。声かけたろか、それとも追いつめてレイプしたろか、とか思てんのかな少年は。でもそれもできない。なんにもできない。って言うか、何もすることがない」
(リョウ。インタビューより)

そんなリョウは、他のメンバーと違って、彼は音楽のトレーニングを全く受けずに育った。のちにドラマーとしてはプロ級の腕前に成長することになるが、中学時代の彼の関心は、「女にもてること」そして「サッカー」この二つだったのだ。

 
●サッカー少年からパンク・ロッカーへ

子供の頃からリョウは、とくに父と仲が良く、子供の頃から毎週日曜日にサッカーばかりしていた。中学時代はサッカー部に在籍し、ゴールキーパーをつとめていたが、ある時試合で他の選手とぶつかって跳ねとばされ、ゴールの鉄パイプに脚を激しくぶつけて骨折する。
(この時の怪我が元でリョウはのちも、右足をやや曳きずるような歩き方をしていた時期があった)

これがキッカケでサッカーができなくなり、暇を持てあまして「退屈で今にも死にそうだった」リョウは、同じ学校にあったロックバンドへの加入を誘われる。ベーシストがあまりにヘタなので辞めさせ、リョウをベースにしようという魂胆だった。
リョウも全くベースが弾けなかったのだが、メンバーは「恰好だけでいい」とリョウに言った。リョウは恰好だけ弾く真似をして文化祭に出演した。

ミュージシャンの過去の逸話としてはほとんど冗談にしか思えないエピソードだが、なんとこの「なんちゃって」ライブこそが、のちのリョウのミュージシャンとしての思考法・スタイルにつながってゆくのだ。
「プロのクラシックの音楽家でもない限り、ポップスの演奏なんてみんな素人で、上手いなんて言っても五〇歩百歩だ。ようするに、あんなものは全部ハッタリだ」と考えていた彼は、楽器のテクニックと無関係な、「できるだけデタラメな音楽をやること」を考え始めていたのだった。

このような考え方をする少年がパンクに走るのは珍しいことではない。彼はこの経験のあと、ベースをしばらく練習したが、難しすぎることを知り(彼は楽譜が全く読み書きできなかったし、今もできない)、「楽譜が読めなくても出来て、その割に派手で女にもてそうな」ドラムスに転向する。

そして 高校時代、入学と相前後して結成したバンドでドラマーを担当したリョウは、ドラムスという、練習の難しい楽器のリハーサルを可能にする環境に彼は恵まれていた。前述の通り、かつてアマチュア・ミュージシャンとして活動していた彼の父が、ガレージを改造したスタジオを、息子のバンドの練習のために大歓迎で解放してくれたのだ。

この大阪のリョウの実家にあったガレージ・スタジオは、実はのちにファー・イースト・アシッド・ハウス・クワルテットのメンバーが練習に使用し、ファースト・アルバム『十億の神経の針(A Billion Nerve Needles)』を除き、セカンド・アルバム以後の数枚のアルバムのレコーディング・セッションや実際のレコーディングに使用された場所でもあった。
アルバム・ブックレットに「Electric Locust Factory(電気羽虫工場)」と記されているそれが、他ならぬこのガレージ・スタジオなのである。
芙苑晶の自宅に本格的なレコーディングスタジオがあり、メインのレコーディングはここで行われたことはファンの間でも知られているが、芙苑晶のスタジオは電子音楽のレコーディングがメインで、生音を録音するのは難しかったのである。

 
●溶接工として働く日々、パンク・バンド「精神異常集団エス・イー・エックス」「幼虫」

そして、リョウに言わせれば「授業中は三年間居眠りし、休憩時間には毎時間トイレで煙草を吸ってても、誰でも卒業さしてくれるアホ高校」を卒業後、地元の鉄工所に就職、溶接工として働くようになる(「暴力沙汰を起こして高校を二年で中退」と書かれているプロフィールが存在するが、これはリョウの創作であることがのちに判明している)。

そして高校卒業と相前後して、1981年の夏、リョウはハードコア・パンク・バンド「精神異常集団エス・イー・エックス」結成。セックス・ピストルズに影響を受けた三人編成のバンドで、ギター、ベース、ドラムのトリオ。リーダーはリョウで、バンドの命名者も彼であった。そしてこれが、リョウが初めて公式におこなった音楽活動だった。

「精神異常集団エス・イー・エックス」は、大阪を中心にアンダーグラウンド・シーンで活動したバンドで、ギター、ベース、ドラムの三人編成。ライブでは、ギターとベースは演奏しながら場内を駆け回り、壁に突進して血まみれになる。片やリョウは、お経のテープ(「南無妙法蓮華経」)をステージに流し、しばしばドラムを蹴飛ばして破壊するなどの、異常で過激なパフォーマンスを挙行。
リョウの溶接工としての経験も意外なところで活かされた。ドラム以外に、ライブ・ステージに持ち込んだ鉄骨や廃材を、電動機械で切断したり溶接したりして「演奏」する過激なパフォーマンスを演ずる(このパフォーマンスのスタイルは、のちにファー・イーストのライブでも再現されることになる)。

「どれだけデタラメな演奏ができるか」を競い合うようなダダ的とも言えるライブが特徴のこのバンドは、曲も完成されたものは一つもなく、ただ力任せに滅茶苦茶に即興演奏して1曲が1分以内で終わってしまうという極端なハードコア・パンクで、出場するライブハウスではたびたび乱闘が起き、最後にはライブハウスから閉め出しを喰らった。

あまりに極端で過激なハードコア・パンク・バンドは、日本のパンク史から忘れ去られた暗部であるが、一部に熱狂的賛美者を持った。しかし、活動の場を失い、やることがなくなって、約半年という短期間で解散。また、解散直後、ギター奏者は19才で自殺している。

ハードコア・パンクに限界を感じたリョウは、再出発として1983年、オルタナティブ・パンク・バンド「幼虫」結成。同じくリーダー、ドラマーとして在籍。しかしこの「幼虫」も二年足らずで解散。 こちらは五人編成のバンドで、前のバンドよりは作曲された曲もあり、もう少しオルタナティブ・ロック寄りに接近した。
「幼虫」の代表曲には、当時リョウが作詞作曲したというオリジナル曲に「ホテル鶴橋」というものがあった。鶴橋とは大阪の地名だが、これはイーグルスの「ホテル・カリフォルニア」のパロディで、コード進行もメロディもほとんど同じ(歌詞はもちろん日本語)なのだが、あまりに破壊的な演奏のためにオリジナルに気が付いた客はほとんどいなかったと言われる。

このバンドは83年から84年にかけて関西のオルタナティブ/パンク系ライブハウスに出演し、それなりの人気を得ていた。当時リョウは、 のちにボアダムス等で有名になる山塚アイ率いる「ハナタラシ」や、暗黒大陸じゃがたら、EP-4といったバンドと同じ夜にギグ出演したこともあった。

リョウがパンクに失望し始めたのもこのころだった。「幼虫」はそれなりのファンを獲得していたし、日本のパンク・シーンにはすでにスターリンなどの「成功した」バンドも登場していたので、他のメンバーたちはパンクでやっていく方向しか考えていなかったようだったが、リョウは違った。
彼は、パンクという、本来真に破壊的・革新的・覚醒的であるはずの音楽が、すでに予定調和で、時代遅れなものになりつつあると考えていた。

それにこのころになると、リョウはある程度音楽のことがわかってきていた。相変わらず楽譜は全く読めず、音楽理論は理解できなかったものの、経験的カンによる音楽作りが少しずつではあるが可能になってきていたのだ。
他のメンバーは知らなかったことだったが、リョウは父のお古である8チャンネルのマルチトラック・レコーダーを使った多重録音を秘かにおこなっていた。興味本位ではあったが、シンセサイザーを買ったのもこのころだ。
そんな中で、84年の春、リョウは「幼虫」を解散する。

 
●インダストリアル、電子音楽、ハウス・ミュージックとの出会い

その頃はまた、電子楽器のテクノロジーが急速に発展しつつあった黎明期でもあった。とくに、MIDIに代表されるデジタル・シンセサイザーやコンピューターを使った新しいレコーディングの手法は、音楽業界で主流となりつつあった。
それと並行して、すでにパンクは下火になり、ニューウェーブやニューロマンティックといった新しいスタイルのバンドが続々とヒットチャートに登場していた。

リョウはこれらの音楽には、興味をあまり惹かれなかった。彼が惹かれたのは、CAN、クラスター、ノイといった70年代の実験的なクラウトロックや、クラフトワークなどの初期のオールドスクール・テクノ、ニューウェーブ時代の暗黒面とも言えるような、新しいオルタナティブ・ロック、すなわちのちのインダストリアル、ノイズ、エクスペリメンタルなどと呼ばれる一派だった。中でも、この頃ブレイクしたドイツのバンド、アインシュツルンデ・ノイバウテンなどの方法論は面白いと思っていた。

「この頃はまだ混沌としてたから、自分の中で未整理やってんけど、今だったらきれいに整理できてるねん。一番影響受けたんて、この頃聴いてた音楽なんやね。
  とくに、70年代のクラウトロック(ドイツの前衛ロック)の電子音楽系のやつ、あるやん。クラスターとかノイとか、コンラッド・シュニッツラーとか・・・。あのへんええなあ思て。どうやって作ってるのか分からへんかったけど、自分でもそういう音作りたくて、シンセとディレイで一生懸命作ってた。模索の時期やったね」

「振り返ってみると、あのへんのノリが、今の俺がやってる音楽につながってると思う。まあ言えば、トランス感覚言うか・・・ 」
(インタビューより)

ここで「クラウトロック」について少し述べておこう。興味深いのは、リョウと同じファー・イーストのメンバーである芙苑晶とは、この電子音楽系クラウトロックのアーティストたちからの影響が、共通項であったことだ。
ファー・イーストとは一見あまり関係なさそうに見えるジャンルだが、しかし、これは偶然の一致とは言えない。実際、こういった70年代の電子音楽系クラウトロックのアーティストたちは、当時は前衛ロックと見なされていたが、今では(初期の)トランス系のハウス・ミュージックのアーティストたち(つまりファー・イーストの世代、とくに日本よりはヨーロッパにおいて)が、こぞってその影響やリスペクトを口にする「トランス・ハウスの元祖の元祖」とも言えそうなアーティストたちなのである。

しかし、とりわけ、当時の彼が最も影響を受けたのは、意外なことに、当時(1980年頃)日本でも公開された、デヴィッド・リンチの映画『イレイザーヘッド』のサウンドトラックだった。彼は最初に映画を観、映画が良かったので、サウンドトラックのレコード(レア盤である)を直感的に衝動買いしたが、 これに感激したという。

「なんて言うかなあ。これが言葉で言いにくいねんけど。まあノイズとかインダストリアルみたいな音やねんけど、非常に暗い。今で言うダーク・アンビエントとか、ああいう感じ。非常におぞましいと言うか、聴きたくない音。でも聴いてて気持ちええ音。怪奇映画のサントラにもならんでていうぐらい、アブストラクトな音でな」

「でも音聴いてわかるんは、あれって、シンセサイザーとテープで作ってねんな。昔のあの、ミュージック・コンクレート言うか、電子音楽の作り方で。ハサミでテープ切って加工してとか、そういう作り方で。」

「便利でデジタルな、ボンボンな技術じゃなくて、もっとアナログ言うか、原始的なテクノロジーな。そのへんの扱い方も含めて、ああ、リンチて音楽わかってるやん、いう感じ。それはちょっとビックリしたね。カルチャーショックに近いもんがあった。あれは、現代テクノを超えてるよ。 だから俺、最初はパンクから入ってるけど、パンクの時はなんにもわかってなかった、音楽のことは。でもパンクやめて、自宅録音みたいなこと始めて・・・ちょうどその頃やね、リンチのイレイザーヘッドのサントラ、偶然聴いてな。これは凄いと思たわけ。」

「まあジャンル分け的に言えばノイズ。ノイズって言うかインダストリアル・ミュージック。
でもインダストリアルいうのも、なんか記号化してるとこあって。ただ鉄の音とか入れたらインダストリアル・ミュージックいうのもおかしいよ。そういう安易な認識が広まってるけどね。 でも俺はなんかそういうのは違う。俺としては違う。インダストリアル・ミュージックいうのはやっぱり、あのリンチのイレイザーヘッドのサントラな。あれが俺にとってのインダストリアル音楽の出発点言うか、まあルーツ言うか。ルーツいう言葉は良くないけどね、しいて言うならルーツかなと」
(リョウ。インタビューより)
 
●クラウトロック + インダストリアルとハウス・ミュージックの架け橋〜「ハウス・パンクス」哲学誕生

同じ頃、リョウは大阪で藤原ヒロシのステージを見る機会に恵まれる。日本におけるDJ/リミキサーの第一人者として、すでに知る人ぞ知る大物になっていたこのアーティストにリョウは惹かれた。
ステージが終わってから喋ろうかと思ったが、藤原ヒロシは女の子の客に取り巻かれていて近寄れなかった。そのことは逆にリョウを感動させた。
「革命的な新しいスタイルを持ち、楽器のテクニックとは違う次元の表現ができ、女にモテる、という三拍子が揃っていた」
それはまさに、彼の理想だったのだ。この夜、プロの DJになることをリョウは決意する。

「それもあったし、やっぱりトランス感覚やね。ハウスていう音楽はそれがあるなと。俺がやりたかった音楽はこれや!って思ったわけ」
(インタビューより)

以後、彼の音楽的経験は二つの軸に沿って展開していった。一つはエレクトロニック・ミュージックの流れ(ハウス、テクノ、インダストリアル)、もう一つはDJというパフォーマンス・アーティストとしてのスタイルの中で追求されるライブ・パフォーマンスの可能性である。

1986年当時、DJはまだ新しい分野で、今とは違って情報も教科書もない時代だった。しかしリョウは情報を集め、単身DJ修業のため、ニューヨークへ渡る。NYがハウスの本場だと聞いていたからだが、ここで彼は先輩格のDJに何人か会っている。その中には、のちにカリスマDJと呼ばれたラリー・レヴァンなども含まれていた。

これと相前後して、リョウはのちのファー・イースト・アシッド・ハウス・クワルテットのメンバーとなる田嶋エリサ、市川カヲルと知り合っていた。
しかしまだ名前は「安永亮」のままだった。いつごろからか定かではないが、「藤原ヒロシ」を真似て「安永リョウ」に変える。のちに彼のこの変名の影響で、同じ「蜘蛛」のメンバーだった田嶋絵里沙は「田嶋エリサ」、市川薫は「市川カヲル」、鳴海奈々は「鳴海ナナ」にそれぞれ名前を変えた。

NYに約一年以上住み、何箇所もクラブを回って武者修行を積んだリョウは、日本に帰国し、プロとしてDJ活動を始める。ソロの時もあったし、田嶋エリサたちと一緒にステージに上がることもあった。
ソロ活動のかたわら、スタイルはまだ曖昧だったが、彼らのトリオ「蜘蛛」は、芙苑晶・マダム呪々が中心になってやっていたユニット「淫心」と合流。鳴海ナナを除いた5人で、第二期「淫心」がスタートする。1987年、彼らは自主制作で2作目『鳥どもの家』をレコーディングする。「このレコーディング・セッションがファー・イーストの母胎になった」とリョウは言う。

「入り口がパンクやったさかい、どうしても発想的にはパンク的なとこがずっとあるわけやけど、音楽としては俺が一番好きなんは、電子音楽やね。とくにハウスやね。そういう意味じゃ、ハウス・パンクス言うかね(笑)、分類したらいちおう、ハウス・ミュージシャン。パンクスのスピリッツを持ったハウス・ミュージシャンいう感じかな」

「ハウス・ミュージックいうのは、面白いねん。エレクトロニックやねんけど、スピリッツとノリはパンクっぽい面があって・・・刺激を求めてひたすら突っ走る、いうかね。
  だからあの当時、ちょうど俺なんかと同世代のミュージシャンで、パンクからハウスに来る奴ってたまにおってん。日本じゃあんまり見んけどね。イギリスとかにはおるね。KLFとかね。俺はそういう位置におるわけ」

「ハウスいうてもいろいろあるけど、俺の言うてるのはブラックミュージックのあれじゃなくて、ヨーロッパのハウス・・・、アシッド・ハウスとか、そっちのほうな。アナログ・シンセとか808(リズムマシン)のハットの音とか効いてて、こう、麻薬的言うか。それを何べんも聴いてるうちに、だんだん頭と耳がポーッとして、気持ちようなって、麻痺してくる言うか」

「アキなんかワグナーとかあのへんから入ってきてるやん。エリはエスニックとかサイケとか好きやし、カヲルはフリー・ジャズやっとったし。ほんで俺がパンクやん。淫心のメンバーてほんまに、ジャンル的にはバラバラやってんな。少なくとも表面的にはそう見えててん。
 でも違うねん。俺らに共通してたもんって、エクスタシー言うか、トランス言うか、そういう世界。ワグナーでもクラウトロックでも、エスニックでもサイケでもフリージャズでも、陶酔とか恍惚感いう点では立派に共通してるわけやんか。
  だからジャンル云々ていうとこじゃなくて、そこを見て欲しいねんけどね、俺は 」

「ついでに言うと、そこが『ファー・イースト』の音楽の異色性やと思うよ。テクノのアーティストてたいてい、みんないきなりテクノから入ってる人、多いやん。俺らはどっちか言うと、ああいうロックとかパンクみたいな、違うとこから入ってきてるから。だから音が独自やて言われるのは、そのせいやと思う。誰かの真似でやってきたんと違うからね。そこの独自性は自信あるよ。
 そういう意味で、淫心なりファー・イーストて、もしかして日本初のトランス・ハウス・ミュージックのバンドと違うかな」
(インタビューより)

この「淫心」はリョウにとって一つの大きな契機となった。芙苑晶という、リョウにとっては初めてのプロらしいミュージシャンと出会ったことで、本来研究熱心な性格であり、DJとしての活動だけでは満足していなかった彼の探求心を満たす機会に恵まれたのだった。

「アキはクラシックから来て、俺はパンクで、全然共通点ない思うやろ? でもそれがあったんよ。クラウトロックのシンセ使ってるやつ、クラスターとかノイとか、コニー・プランクとかコンラッド・シュニッツラーとかな。
  『鳥どもの家』のセッションの時に初めてあいつと会うて、その話で盛り上がった。ああいう電子音楽系のクラウトロックの延長線上にあるダンス・ミュージックみたいなやつ作れへんか、て言うて。そういう発想で作ったのが『鳥どもの家』で、あれは俺は個人的に気に入ってるアルバムやね」
(インタビューより)

『鳥どもの家』は、「ファー・イースト」のロンドン行き = つまりアシッド・ハウス遭遇以前に作られたものだが、注目して欲しいのは、アナログ・シンセサイザーの幻覚的なシーケンス・サウンドが随所に取り入れられていることだ。わかる人にはわかるであろう、「アシッド・ハウス」を予感させるようなサウンドが、すでにここにあった。 これは主に、リョウと芙苑晶の二人のコンビが作り出したアイディアであった。

 
●『鳥どもの家』、ロンドン、サウンド・クリエーターとしての目覚め

「ファー・イースト」の音楽を作っていた中心人物は、アキ・リョウの男たち二人である。芙苑晶がメロディやアレンジといった音楽の柱となる部分を作り、リョウはそれと逆に、サウンドやビートなどを創り出していた。「ファー・イースト」の音楽のユニークさは、この二人のコンビネーションに負うところが大きい。

出会った当時、 とくに、リョウが興味を抱いたのは、芙苑晶がクラシック / 現代音楽畑出身であり、しかも新しい電子音楽やテクノを追求しているアーティストだったことだった。
このころリョウは芙苑晶と会って、「こんな奴がいたのか」と驚いたらしい。彼が驚くのも無理はなかった。ポピュラー音楽界で、スコアが書けるミュージシャンは、いまでも珍しい。しかも、まだ若いのに、シンセのエキスパートである。 リョウは自分と異なった世界で生きてきたこの年下の音楽家を尊敬し、惹かれていた。それはすでに、「ファー・イースト」の母胎となる淫心の『鳥どもの家』セッションの時(1987年の春)に始まっていた。

「話聞いて、もうムッチャ面白い奴やなあ思たね。アキは滅茶苦茶技術持っとんねんけど、その技術をどれだけ忘れてトランス的な音楽作れるか、みたいなとこに、すでにチャレンジしとったからね。こいつ将来、大物になるん違うか、てね。
  だからあの時、アキをバンドに入れたいて真っ先に主張したんは、実は俺よ。それは正解やったわけ」

「87年かな、あいつは日本に戻ってきた時点ですでに、海外でもう一仕事しとってん。NYでやってたいう、幻覚植物研究所のデモテープとか、ライヴのビデオとか見せてもろて、こらあ凄いと思たね。そのへんがまた、『ファー・イースト』につながってるねん」

「俺らは、お互いに影響与え合ってるねんな。アキはテリトリー無茶苦茶広い奴やさかい、いろんな音楽知ってるし。ビートルズの後期のこれが凄い、とか、クラシックとか現代音楽とかまで教えてもろたし。
  それにあいつが凄いんは、先見の明があるねん。新しい音楽とかテクノのアーティストのCDとか見つけてきたり、あいつ自身も新しい音楽作りよるしね。そういうとこは、ほんまに凄いと思うね」
(インタビューより)

二人は一見正反対のようにも見えたが、プライベートでは気が合い、このあとも親友同士であり、仕事の面では良い意味でのライバルだった。
そしてバンド内では、この二人がメインになって打ち込みやレコーディングが進められた。「ファー・イースト」のサウンド・クリエーターとして、異なったキャラクターの二人は、良き好敵手同士でもあった。お互いに個性が違ったのだが、「しゃべってみると意外に気の合う仲」だったからだ。

「プライベートでも、初対面の時は馬が合わん同士やと思ったけど・・・あいつも俺のこと、そう思たらしいけどね(笑)、なんせパンクとヒッピーやから(笑)
 でも、今じゃ全然話合うよ。あいつが日本戻って来てる時なんか、しょっちゅう二人で酒飲みに行ったりしてるし。しゃべっとって面白いさかい。しょうもない冗談とかいっぱい言うて、朝までしゃべってたりね(笑)。
  だからまあ言うたら、個性とか生き方とかは違うねんけど、波長は合うてる言うか。あいつもそう言うてるし。もう最近なんて、全然ツーカーやね」
(インタビューより)

音楽面では、リョウは、「ファー・イースト」を始めてまもないころ、芙苑晶から多くのことを学んだと告白している。音楽理論やアンサンブルの組み立て方、そして大きかったのは電子楽器をはじめとするスタジオ機器やコンピューターの扱いを教わったことは、ミュージシャン、アーティストとしてのリョウに大きな転機となった。

「アキと会う機会がなかったら、俺はただのDJ で終わったと思う」とリョウはのちに語っている。「それもおもろないなって思い始めてた頃やった。ちょうどその頃から、DJ志望の若い奴らは巷にだんだん増えてきて、もう仕事としてこれはあとがないっていうのがわかってたし、俺はやっぱり、エレクトロニック・ミュージックが作りたいと思ってたからね」

そしてリョウはアキに「俺も音楽理論ぐらい勉強したほうがええかな」と聞いた。芙苑晶は、「勉強しないほうがいいと思う」と答えた。

「うまい・ヘタっていう問題じゃない。単にうまい奴だったら、俺だってかつてクラシックやってた頃、さんざん見てたしね。
  うまい・ヘタを超える『何か』があるかどうか、が問題なんだ。それが実は『才能』なわけ」

「人は『才能』と『技術』を、しばしばゴッチャにしてると思う。たとえば俺は、リョウが言うように、クラシックのスコアが書けるし、そっちの技術は持っている。でもそれは単なる『技術』に過ぎない。それを第一義に考えるのは、これは物資的価値観だよね。(中略)
  問題は、たとえば俺なら、そのクラシックならクラシックの技術をどれだけ利用しまくって自分だけの音楽作れるか、とか、あるいは、その技術がかえって邪魔だって思った時には、どれだけ潔くスパッと捨てて、裸で音楽作れるか、っていうね、そこだと思う。
 それがそいつの持ってる『何か』なわけ」

「リョウにはその『何か』があった。エリやカヲルにもあった。だから『ファー・イースト』は、ああいうユニークなバンドになったんだと思うよ」
(芙苑晶。インタビューより)

88年、メンバー四人でロンドンに渡り、ファー・イースト・アシッド・ハウス・クワルテットとなって以後、最初にレコーディングされた 『十億の神経の針(A Billion Nerve Needles)』においてリョウは、すでにサウンド・クリエーターとしての才能を発揮している。そしてこれ以降解散に至るまでつづく4枚のアルバムのレコーディングにおいて、彼ならではの一種の狂気を感じさせるようなセンスが、大きく「ファー・イースト」サウンドに影響することになる。

 
●「ハウス、トランス、レイヴはもっと深いと思うよ」

1993年、「ファー・イースト」はクラブ出演を停止、おもにレコーディング・バンドとして活動を再開することを宣言した。これには裏の事情があった。一つには芙苑晶がソロ活動のために脱退したがっていたことだった。片や、市川カヲルは鬱気味で、音楽への情熱を失くしていたため、「アキがやめるのなら、私もやめる」と言ったのである。

これに最も強く反対したのはリョウだった。田嶋エリサはリョウほどではなく、中間的な意見だった。この問題をめぐって徹夜で話し合いがあり、結果、バンドは、リョウをリーダーとして再出発しようということになった。
(一時、リョウがリーダーに交替するということに決定したものの、これは一ヶ月ほどしか持続しなかった。リョウは音楽的な面でバンドを仕切ることはできず、バンド・リーダーとしては相変わらず、芙苑晶のままであった)

クラブ・シーンやレイヴ文化の商業主義化に、最も強く意義を唱えたのは、リョウだったと言われている。リョウは、1993年のインタビューで、クラブの商業化や、時代の流れとともに多傾向化・多義化していくトランス / ハウス・ミュージックそしてレイヴというものについて、次のように整理している。

「俺が一番遠いのって、ジュリアナとかね、ああいう文化な。日本やとあれがハウス・ミュージックいうことになってしもたやん。トランスとかレイヴていう言葉もあっちに流れていってしまったし。
  しかもそれが、日本で『ハウス』とか『トランス』とか『レイヴ』って言うた場合に、俺らのやってる音楽とかレイヴとゴッチャにされてしまうのが、死ぬほどイヤやねん(笑)。ゴッチャにされてるから、メディアの人とかに説明しても誰も分かってくれへん。最近の俺の、最大の苦悩やね」

「それが俺は残念なんやね。なんかもう、とうとうこんなことになってしもたな、いう感じで、たまらんなって・・・。俺らが何年もアンダーグラウンドでがんばってたのに、メディアがあおって、あおって、一瞬で風俗になってしもたからね。
  まあある程度予想は出来てたけどね、でももう、最悪の事態。
  だから、なんか違うねんなあ。日本て、ロックとかポップスでもそうやけど、なんか違うねん。音は外国の音楽をそのままマネしてても、スピリッツがどこにもない言うか・・・深さがない言うかね」

「そうじゃないやろ、いうねんな。ハウス、トランス、レイヴいうのは、もっと深い音楽であり文化やと俺は思うよ。エレクトロニック・パンクて言うか、そういう部分があるからね。シンセでトランスしてレイヴしていく言うか。ボディコンとかそんなん、関係ないよ。
  だからジャーマン・トランス・テクノとか出てきたけど、ああいうのはもう、メッチャ好きやねえ。ああいうのは俺らのやってる音楽に近い感じがするね。でも、日本ではそんなんがジュリアナでかかってたり、ゴッチャにされてるからね。ようするに、ほんまは誰もテクノなんか好きじゃないんかなあ、て」
(インタビューより)

「ファー・イースト」の野外レイヴに関するインタビューでは、彼は次のように述べている。

「トランスとかレイヴ言うと、ドラッグとか連想する人多いみたいやけど。でもそんなん、人それぞれやと思うね。最近アキなんか、ドラッグなしでどれだけハイになれるか、てよう言うてるけど、俺なんかも同感やね。
  クラブ行って酒飲んで踊るだけでも、もうトランス行けるからね。俺らのレイヴも、そういうとこでやってるわけ」
(インタビューより)

のちの「ファー・イースト」において、芙苑晶が「作曲家」だったとすれば、リョウはサウンド・クリエーターだったと言えるだろう。
芙苑晶はクラシックの技術を応用した建築的な音楽作りに長けていたが、リョウはそれと正反対にスタジオ・レコーディング・テクニックを駆使し、ノン・ミュージシャンならではのアナーキーなセンスで、実験的かつトリッキーなアヴァンギャルド・サウンドを作る天才として、とくにバンド後期には評価が高かった。

 
●シュールでインテリジェントな過激さ、親分肌な「兄貴」タイプ

またこのころ(1990年前後)、「ファー・イースト」の奇行とも言える過激なステージが巷で話題になっていた。それは元々、自然発生的なものだったのだが、ある時期以後、それをパフォーマンスとして計略的に考え、演出しようとしたのはリョウであった。
その音楽的センス同様、リョウのステージ演出に対するセンスは、一言で言うと「シュールでインテリジェントな過激さ」といったものが一貫して感じられる。

そこが、どこかラブ・アンド・ピースな雰囲気の他のメンバーと違った、彼ならではの「ハウス・パンクス」(この言葉はリョウは「俺の発明」と言っている)的な、ブラックユーモアを感じさせる部分だ。
この点で彼は「ファー・イースト」の中で異色だった。「ファー・イースト」にパンキッシュな、あるいはインダストリアルな雰囲気が感じられるとしたら、それはリョウの影響による部分が大きいと見ていいだろう。

「俺が幼虫をやってた頃、スターリン(日本のパンク・バンド)がステージで異常なことをやってるっていうんでマスコミに取り上げられて有名になってた。ハナタラシなんかも似たようなところがあった。
 俺はそういうのを雑誌で読んで、なんやこんな程度でええんかって思た。じゃあ俺らも何かやろう、と」

「俺らのバンド(ファー・イースト)がスターリンなんかと根本的に違ったのは、エレクトロニック・ミュージックで、音楽として凝ってて、芸術的に高度やったことやった。
 俺らの最初のアルバム聴いて、プログレ好きな連中なんかが『あのバンドはすごい。ただのテクノじゃない』とか言うてたぐらいやからな。ま、アキ(芙苑晶)のクラシック的なアレンジも効いてるんやろけど」

「でもそういうバンドがステージで過激なことをやることで、逆にインテリジェントな連中にウケるかなって思った。ノイバウテンみたいにな。
 その読みは当たってたよ。クラバーっていうのはそういう連中やった。パンクスよりもっと洗練されてるんやね。音楽分かってる子が凄い多いジャンルやから」
(インタビューより)

「ファー・イースト」におけるリョウのイメージは、どうだったのだろうか。冒頭で述べたとおり、外見がおっかないうえ、ふだんはあまり物を言わず、無愛想な彼は、バンド活動当時は、ごく稀にしかサングラスを外したことはなく、素顔を人に見せなかった。

確かに彼は、あまり「人当たり」は良くないタイプである。しかも、ガンコで激しい一面があった。93年頃以降、レコーディング・セッションをサボるようになった市川カヲルを激しく攻撃したのはリョウである。彼は、『肺魚の夢(Lung Fish Dreams)』(1995)のレコーディング中、何日も姿を現さず、皆が忘れた頃にスタジオにやって来たカヲルを何度も思い切り殴りつけ、エリ・アキたちから反感を買うという事件を起こしている。

頑固だけなら美点とも言えるが、元々喧嘩っ早くて、しかもキレるとただでは済まない男、それがリョウであった。
リョウの凶暴性は有名だ。往年のFEファンなら知らぬ者はないとも言われるあの有名な「レコード会社での暴行事件」---ファー・イーストのメンバーたちが、日本の某・レコード会社に面談に行ったさい、横柄な態度だった担当者の顔を、カッとなったリョウがその場にあったガラス製の灰皿で激しく殴打し、これがファー・イーストとレコード会社との対立に発展するというあの事件---の火付け役はもちろんリョウ。
他にも、当時のファー・イーストFC会報等に載った投稿や関係者たちの伝聞の中には、大同小異の伝説は見られる。書けばきりがないので、あと三つだけ(!!)有名な部類のエピソードを挙げておこう。

その1は、ファー・イーストが九州は福岡・博多のライブハウスに出演した時の話。パンク、オルタナ系のミュージシャンが多いと言われたそのハコには当日、ファー・イーストの前座として、過激なパフォーマンスで知られる某・インディーズバンドが出演していて、やたらパンクスの客たちが多い日だったが、この夜、ファー・イーストの出番になって、エリが上着を脱いでキャミソール姿になったとたん、何を思ったか異常に興奮したパンクスの少年たちがドッとステージになだれ込んで来たことがあった。
この時、ステージで大乱闘が起きているが、これの火付け役ももちろんリョウである。リョウはDJブースを破壊し始めたパンクスたちの一人の頭をペプシ・コーラの瓶で殴り、大怪我させている。

その2。ファー・イーストのメンバーたち四人が、初期の全国ツアーの途中、プライベート・タイムで、どこかの海岸を散歩していた(静岡県あたりだったのではないかと土井昌美は言う)。月の美しい静かな夜であった。
すると、反対側から歩いてきたチンピラ風の若衆が二人、エリに何か言って絡んできた。エリが突っぱねると、リョウが二人を相手に脅し始めた。その勢いがあまりに凄かったので、二人は謝りながら逃げた(これは正当防衛なので、いちおう善行の部類)。

その3は、モロ・喧嘩話。バンドのクラブ・ツアーの最後の年(1992年)だろうか、メンバーたちが東京に滞在中、その自由行動時間に、渋谷区の商店街をブラブラ歩いていたリョウは、突然、チーム族の少年たち三人に絡まれた。夕暮れの商店街で、喧嘩が始まった。
少年たちとはいえ、三人もの男が相手なので、さすがのリョウも最初はボコボコにやられた。だが途中で形勢が逆転し始め、リョウは年下の三人のチーム族相手にたった一人で大立ち回りを演じ、彼らが血まみれになるまで殴る蹴るし、最後には少年たちを道ばたに土下座させ、謝らせた。
この間、 そばにあった婦人服店のショーウィンドウ・ガラスが割れ、マネキンが倒れ、店主が警察に通報した。パトカーが来た。すでにまわりには黒山の人だかりが出来ていた(その中には、近くのゲーセンから出てきたばかりの市川カヲルと芙苑晶の二人が立っていて、一部始終を目撃していた)。リョウは地元の警察署に連行され、事情聴取され、留置場に入れられた(言っとくが、褒めてんじゃねーぞ。よい子のみなさんは真似しないように!!)。

こんなことが起きるたび、マネージャーの土井昌美が謝りに行った。実際、こんな奴がバンド・メンバーにいたら、マネージャーの首がいくつあっても足りるもんじゃない。他のメンバーたちとの軋轢の多くも、リョウのこの凶暴性が関係している。

ところがリョウには、意外なほど熱烈なファンも多かった。「ファー・イースト」がクラブに出ると、彼に手を振り、「リョウちゃ〜ん」と黄色い声をあげる少女たち。ライヴが終わると花束を持って楽屋を訪れるクラバーの女の子たちは引きも切らず、野郎たちからもリスペクトの嵐。「うぃ〜す! リョウさん、よろしくっす! マジ応援してますんで!」・・・こんな調子で頭を下げ、リョウの後を追いかける「子分」たちは数知れなかった。
しかもこれは、「ファー・イースト」時代に始まったことではない。パンク・バンド時代から、「一声かければ300人パンクスの弟子が集まる」と自ら公言していた彼は、もちろんマイナーの世界ではあるが、多くの人に慕われていた。

気難しくてガンコな面も確かにあるが、情に厚い性格で親分肌、後輩の面倒見も良かった。インタビューなどでは彼のズケズケいう毒舌は賛否両論を招いたが、賛成派のファンたちはリョウの、一切隠さない本音トークを絶賛。
そして、口を開くとみんなが噴き出す大阪弁でのブラックジョークの数々は、おっかない外見に不釣合いなほど可笑しく、爆笑の渦を誘った。大阪人ならではの自己ボケとツッコミは、ライヴのMCでも遺憾なく発揮され(ただし、クラブ出演の時が多く、野外レイヴの時はあまりギャグ系のMCはなかった)、どこか呪術的・幻想的で暗いイメージもつきまとう「ファー・イースト」に、意外な「醒めたインテリジェントな味」をも添えていた。

 
●バンド解体〜「ファー・イースト」に最も執着した男

1993年から解散の97年まで、すなわち「ファー・イースト」の後期のリーダー代わりになってバンドを引っ張ろうとしたのはリョウ(実質的なリーダーではなかったが)だが、彼に対しては批判と賞賛の全く二つの異なる見方があった。
前者は、リョウはエゴの塊で、人を顎であしらう暴君だというもので、後者は、あれだけバンドが崩壊していたのに、リョウはよくバンドを仕切る役をつとめた、というものである。市川カヲルと田嶋エリサが前者の意見に傾き、芙苑晶は後者の意見に近かった。

実際にはどうだったのだろうと、今更言っても始まらないが、しかし多くの関係者の証言を総合するなら、おそらく「どちらの見方も当たっていた」と言えるのではないか。
一番バンド活動に熱心で、親分肌のメンバーが、やる気のない他のメンバーの、時には尻を叩いてでも仕事を遂行しようとする態度。アーティストである限り、そこには多少のエゴもあるかもしれないが、しかし彼はあくまで仕事をしているだけなのだ。言ってみれば、後期ビートルズにおけるポール・マッカートニーのような立場に似ている。

いずれにせよ、自他共に認める仕事熱心だったリョウは、他のメンバーに頼りにされる反面、疎ましがられることも多くなっていった。このことから、メンバー間の亀裂が生まれる。

そして95年6月、市川カヲルが死んだ時も、リョウはまだ「ファー・イースト」に執着し、他のメンバーを入れてバンド活動を続行しようと提案した。この意見をめぐって、田嶋エリサとリョウの対立が決定的なものとなったとき、芙苑晶が実質的にバンドを脱退し(それは世間に発表はされなかったが)、「ファー・イースト」はこの時崩壊したのだと言われている。

相前後するが、1995年、4作目のアルバム『肺魚の夢』発表直後、リョウは覚醒剤使用の容疑で逮捕されている。
その前の年に、芙苑晶・田嶋エリサ夫妻(のちに離婚)が同じく自宅でおこなった「アシッド・パーティ」で、麻薬取締法違反で逮捕されたことがファンの記憶には生々しかったので、このころには「ファー・イースト」は「ドラッグ・バンド」のイメージが定着してしまっていた。

さらにそれに追い打ちをかけるように、95年から96年にかけて、市川カヲルと田嶋エリサの死が続いたため、解散の時を迎えた「ファー・イースト」ファンも、ますます熱狂的なファンと醒めたファンの二派とに分裂しつつあった。

「カヲルが死んだ当時、俺らは三人とも、精神的に追いつめられてて、キツい状況にあった。当たり前やろ、長いこと活動してきた友人が死んだんや。
 みんな強がりのほうやから、平気な顔をしてたけど、内心ちょっと怯えてた。次は自分の番じゃないかって思ってたんや。そこにエリが死んだから、俺は震え上がった。偶然やってわかってても、呪われたバンドから逃げたい、みたいな気持ちになってた。
 そういうとこは、俺、結構臆病なんやな」
(インタビューより)

リョウは95-96年にかけて(すなわち市川カヲルの死後)、『電気羽虫(Electric Locust)』『太陽黒点(Sunspot)』のレコーディング中(この二作はほぼ並行してレコーディングされた)から、芙苑晶・田嶋エリサ両人と2対1で対立していた。

そして彼は見解の違いから、「ファー・イースト」始まって以来の暴挙に出る。97年の1月、田嶋エリサが亡くなった時、さすがにバンドのことは諦めたように見えたが、彼は一年後の98年に発表された最後のアルバム、『電気羽虫(Electric Locust)』の方向性が気に入らず、その内容をめぐって今度は芙苑晶と対立し、芙苑晶に絶交を言い渡している。

 
●引退〜新しい生活

バンド解散後の1998年、ヨーロッパに渡ったリョウは、実質上音楽業界を引退。人前から姿を消していたが、一時期、スペインの田舎で独り、八百屋を営んでいたという(面白いことに、当人たちは没交渉のため気づいていなかったが、1998-2000年の2年間、リョウ・アキの二人はともにヨーロッパにいて、しかも仕事をリタイアし、世捨て人のような隠遁生活をしていた)。

2000年、ロンドンへ移住、イギリス人のブティック・オーナーの女性と結婚。以後は夫人の共同経営者兼ハウス・ハズバンドとなった(リョウはこの当時、「つまり俺は、ハウス・パンクスからハウス・ハズバンドになったわけや」とジョークをよく友達に言っていた)。

2002年頃、リョウは長らく絶交中の芙苑晶が、アメリカで新レーベル・Lavalamp Recordsを立ち上げていたことを、友人から知らされる。
その直後、リョウはアキに、「どうしてる?」という短い手紙を書き送った。詫びの言葉はそこにはなかったが、芙苑晶は代わりに、できたばかりのソロ・アルバム『年代記』(2003)のデモテープをリョウに送り返した。「今、俺はこんなことをしている」と短い走り書きの手紙を添えて。
これが二人の、5年ぶりの「和解」となった。以後、さらに数年間、二人は直接会うことはなかったが、時おり電話やメール交換などは続けていたという。

2004年3月、夫人との間に長女が誕生。ルイス・キャロルの小説にちなんでアリスと名付けられた彼女は現在、リョウの「音楽より、自分の右足より、何よりも大事な宝」なのだという。

引退後、人前から姿を消していたリョウだが---なんと、解散後10年目にあたる2007年、芙苑晶の80-90年代の代表曲/クラブ・ヒッツを集めたベスト・ヒット・アルバム『恍惚的宇宙論/トランス・レイヴ・コスモロジー(Trance-Rave Cosmology)』 (2007、「芙苑晶 with トランス・レイヴ・ドーターズ」名義)に、リミキサーとして参加した。
しかも、同アルバムには「ファー・イースト」の代表曲である、『Ibiza Breakfast(イビザで朝食を)』、『Kama Sutra Part 4 (カーマ・スートラ/愛の性典 パート4)』が収録されていた。リョウが担当したのは、もちろん「ファー・イースト」の曲のリミックスである。

しかも、このアルバムのセッションのため、芙苑晶が2007年春、リョウと10年ぶりに再会。リョウのロンドンの自宅を訪れ、一週間にわたり滞在した。二人はホームスタジオで旧作のリミックス・セッションをしたということである。

このニュースに驚いた人は多かっただろう。古くからのファンは、「二人の間にはしこりが出来てしまい、和解したとはいえ、二度と会うことは、まずないだろう」と思われていたからだ。
二度と実現するはずがないと思われていた、元「ファー・イースト」のコンビが復活したのである。アルバム発売前後の「ファー・イースト」関連の掲示板では、「再結成か?」といった憶測まで見られた。

だがこれは、一時的なものであったようだ。
このことに関し、最近(2007年9月)、サイト・スタッフはリョウ自身にコンタクトし、短いコメントをもらった。それは、次のようなものである。

「前にも言ったけど、俺は、音楽を仕事としてやるつもりはない。
  音楽は、趣味ではやることがある。家に小さなスタジオは持っているから、時々、気が向いた時に、打ち込みしたりして楽しんでいる。
でも、仕事じゃない」

「もし例外があるとしたら、今回みたいにアキ(芙苑晶)といっしょにファー・イーストの古い音源のリミックスをやる、とか・・・
 そういうのだったら、ありえるかもしれん。気まぐれに、何年かに一回、俺の気が向いた時だけな。
  でもそれ以外は、全く考えてない」

「解散してから、マスコミが何か聞いてきたことも何度かあるけど、取材は全部、断っている。
  これからも、応じるつもりは一切ない」

「最近聴くのは、クラシックが多い。クラシックのCDをコレクションしている。
  ショスタコービッチ、プロコフィエフのシンフォニーが好きで、家族でよく聴いている。
  テクノを聴くことは、あまりない」

「今は、静かに暮らしている。昔のことを想い出すこともたまにあるが、今の俺には俺の人生があるから・・・」

---サイト・スタッフからの質問に、そう回答したリョウは、現在も音楽シーンに復帰するつもりはないという。

 

リョウが「ファー・イースト」時代に残した発言に、次のようなものがある。

「大して宣伝もせんかったのに、俺らのレイヴに、なんであれだけたくさん人が来たと思う?
  新しい芸術を見たいからやないで。みんな傷ついてるからや。傷ついてるいうのはつまり、この腐った世の中に文句を言う気にもなれんと内心思て、イライラしてる若い子が、今の日本にはいっぱいおるからよ。
  その子らが俺らのファンやねん。だから俺らはまあ言うたら、その子らの代弁者なんやと思う」

「ファー・イーストの良かったとこは、俺ら四人とも好き勝手しとったからね。メディアに媚び売るとか、エエカッコしてプロモ写真いっぱい撮るとか、そういうしょうもないことだけは一切せんかったからね。
  それはべつに体制に反抗してとか、そんなんと違うよ。俺らが好き勝手なことしてるやろ。そしたらファンの子は、『こいつら楽しそうやな、ええなあ』て思うわけや。それが俺らの貴重な存在価値やねん」

「俺は根がパンクやしね、もう勢いでバーッと打ち込みしてな、あとは機械にやらしてるだけやね。
  でもそれで充分やと思うてるからね。お上品でロマンチックな音楽なんて、今時いっぱいあるやん。そんなもん毎日聴いて何がうれしいねん。音楽聴いて泣きたいんか? それとも教養身につけたいんか?
  俺はそんなん、嘘やと思うね。音楽いうのは、熱くなるんよ。熱くなりたいんやね。熱くなれたら、それでええねん。
  ファー・イーストの音楽は、人を熱くするいう点では、一流の音楽やっていう、俺はそこは自信あるさかい 」

引退後に一度だけ行われたインタビューでの発言には、次のようなものがある。

「音楽業界はどんどん悪くなっていってると思う。で、俺自身も音楽業界に合ってないんや。たまに気が向いたときに、アキと一緒にちょっと遊びでレコーディングするとか、そんなんやったらアリかなって思うけど、もうプロとして音楽に復帰するつもりはない」

「ファー・イーストの頃の想い出は、俺にとっては宝物よ。
  でも、今の俺には新しい生活がある。
  それは、それまでの何十年という歳月を全部売り渡しても、とても購えんぐらいの、価値のあるものなんや」

 
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